生存と生命:生活の問題と人生の根本問題

このblogは、主に内山興正老師を善知識(私淑)として据えて、仏教をベースとした人生に関する問題の考察「生死の解決」を目的にしたものである。

であるので、ここで改めて「人生の根本問題とはなにか」を明確にしておきたい。

日々の生活上の問題と人生の根本問題

この世の中で生きていくうえで、つまり世間一般で生活(生存競争)していくうえでの問題といえば「金、健康、人間関係」、突き詰めるとこの3点になると思う。

いっぽうで、そうした日々の生活上の問題3点が仮にすべて支障なく、むしろ順調に進んでいるとした場合でも、いつ何時「病気、災害、事故、事件」に遭遇して生命やその質QOLが根本から揺らぎ・脅かされる状況(そうしたモノ一切合切が失われしまうような状況)に陥るとも限らない。

また、「金、健康、人間関係」に全て満たされているのにもかかわらず「どこか虚しい、人生が寂しくてしかたない」という状況に煩悶している富裕層や死期が近い老年層も多いのではないだろうか?

つまり、人生においては「生存地盤(ミクロ視点)」における生活上の当座の問題と更にその根本の「生命地盤(マクロ視点)」における死を包括した問題がある、と言える。

日々の生活上の問題(生存地盤)

「金、健康、人間関係」といった日々の生活上の問題、とりわけ極論すれば「金と人間関係」だけに振り回されて一生涯をおくるのが世の中大半の人の人生の縮図といっても良いと思う。

※人間関係とは、男女関係、家族関係、友人関係、職場関係など、学校や会社といった広く所属する大小様々な社会的組織(コミュニティ)における関係性を指す

そうした問題は、実際のところはアタマの中の思いでもって描いている幻想のようなもので、いかに重要かつ大きく見えていようとも、生命地盤における人生の根本問題、つまり棺桶から見渡せば、いかにも些末で滑稽な問題になる。

よく「人生詰んだ」などという表現で、いかにも「人生が終わった」みたいな言い方がされるが、なに、その当人のアタマで勝手に作った幻想に輪をかけて妄想を付け足しているに過ぎない。やっぱりそれでも心臓は鼓動しているし、出息・入息、呼吸しているのだし「生命の実物」としては、かすり傷もない。

だからといって、現実的に金がなくてその日の食事や寝床にも困るような状態は辛いし、人間関係で常にストレスフルな状況にさらされている状況は辛い、これも事実だ。

ほどほどに使える金があって、衣食住が保証されており、なおかつ関わりたくない人間関係から一定以上解放されたスペースを確保しておきたい、と思うのも当然だろう。

これの解決を提示しようとすれば「世渡り・処世術」に終止してしまうので、このblogでは積極的に取り上げないが(巷にあふれる書籍や情報のたぐいはこれらの解決を目的にしたものだらけなので、あえて取り上げるだけの価値はないが)、最低限のところでいかに対処するべきかについては、主に人生の根本問題地盤で「見渡した視点」に立って、また記事を改めてまとめていくことにしたい。

人生の根本問題(生命地盤)

上記のような生活上の問題に対する「世渡り・処世術」がうまくいって、「金、人間関係」から万事解放されて、世間的に一定の地位や名声も確保して、はたから見ると順風満帆、いわゆる世間的価値感のモノサシでもって「勝ち組」と称される状況になったとしよう。

それで、あとは死ぬだけ、なのだが、そこで「あれっ?」となる。

勝ち組として「私のもの」として獲得してきたつもりの積み上げてきたつもりの一切合切「金、人間関係に広く含まれる(仲間、友人、伴侶、子ども、組織的地盤、世間的地位・名誉)」は「私の死」あるいは、人生の根本地盤をゆるがすような「病気、災害、事故、事件」といったイベントによって一挙にその色合いが薄れていく。また「健康」にしても当然死ぬ段になって健康であるはずがない。

勝ち組であったはず私は、勝ち取った(と思っていた)そのすべて手放して死んでいかなければならない。

その時になって「果たして、私のこれまでの人生はいったい何だったのか?」「これから私は何のため、誰のために生きればいいのか?」といっても遅すぎる。

ここにおいて、先人が残した、人生の根本問題を明確に示す3つの本を紹介したい

人生の問題に関するイントロダクションはここまでとして、

続けて、記事を改めて「人生の根本問題」それから見渡した「生活上の問題」に関する対処法の2つをぞれぞれまとめることにする。

 

内山興正老師の著作物の特性と【人生科読本】

内山老師の著作物は生前にかなりの数が出ている。 

しかし、その多くが柏樹社という既に廃業した出版社から刊行されたものであり、新装版として再刊されたものも一部あるが、ほとんどが絶版状態になってしまっているのは本当に残念なことだ。

hibinokousatu.hatenablog.com

内山興正老師の著作物の特性(種別)

内山老師の著作物について、老師自身が以下のように述べている。

youtu.be

これは「人生科読本」(柏樹社、1980)という自身の書籍をテキストとした講義を行った際の講義録だが(のちに「生存と生命-人生科講義-:柏樹社、1982」という自身による注釈書・姉妹書としてまとめられているが)、このなかで、老師自身の著作物について「論理的な骨組みを構成する本」「それを土台にした活動的な話をする本(実践的な本)」の2つに分けられることを言われている。

ここで発言されている「人生科読本」は「論理的な骨組みを構成する本」に属しているし、こうした本を書く際に内山老師自身が成長する、ということも言われている。

論理的な骨組みを構成する本を土台にした「活動的・実践的な本」あるいは、それらのエッセンスが凝縮した法句詩(ほっくし)と老師が言われるような「詩(偈頌)」にも重要なものが含まれているし、後者のほうが圧倒的に読みやすく理解もされやすいはずだが、内山老師を語る際に重要になるのは、当然のことながら前者に属する書籍である。

これに該当する書籍として、もっとも初期に刊行されているのが「進みと安らい」(柏樹社、1969年)である。これはのちに新装版も出されて、孫弟子筋や永井均といった哲学者が取り上げて深く論じた書籍も刊行されている。

ただし「進みと安らい」は老師自身が希望して生前に絶版にした点を考慮すると、本来もっとも論じられるべきは「人生科読本」およびその講演録(上記You Tube)をまとめた「生存と生命」の2冊ではないかと思っている。

この「人生科読本」以降は、隠居して後に京都の宗仙寺で12年間行った「正法眼蔵」に関する講義をまとめた書籍(いわゆる正法眼蔵味読シリーズ)や最晩年にまとめた法句詩「御いのち抄」(柏樹社、1990)があるが、本当に晩年に至って(60代最後という時期に)いわゆる「論理的な骨組みを構成する本」として体系的にまとめられた書籍は「人生科読本」が最後といって良いのではないかと思う。

このブログでも老師に関する著作を、一つひとつ段階的にまとめていく予定だが、特に「人生科読本」および講義録「生存と生命」についてはしっかりと取り組んでみたいと思っている。

思いをもって思いの限界を知り、人間的な思いを手放した、思い以上の生(なま)の生命(いのち)に帰ること

内山老師が仏教・仏法を語る際は、既成の仏教的概念でもって語ることを良しとせず、そうした缶詰のような既製品を実際に自分で食べてみて、それを自身の体験を通した言葉でもって広くわかりやすく伝えようという一貫した姿勢があった。

つまり、仏教・仏法について始めから権威ぶって「曰く言い難し」で済ましてしまうのではなく、思いでもって思いの限界を知ること、そのための徹底的な思索と究明をもってしてはじめて「曰く言い難し」という「思い以上」のところ(なまの生命)があることを思い自身で知ることの重要性をよく語られている。

この2つの視点を、老師の著作物に当てはめてみると、前者の集大成が「人生科読本」(あるいは最初期の「進みと安らい」)であり、後者のエッセンスが最晩年の法句詩という形を借りた「御いのち抄」といえるのではないか、と感じている。

どうせ死んでしまう、どうせすべてを失ってしまう人生、なのになぜ生きねばならないのか?

youtu.be

人生を考えるとき、そこにはいくつか難所がある。難所とは人生という大河にうずまく「渦(うず)」のようなものだ。

その最も大きな難所(うず)は、

「どうせ最後には死ぬ人生、それなのになぜ生きなければならないのか? しんどい思いをして勉強したり働いたりしなければならないのか?」

「結局この人生、死ぬために生きているのか?」

という問いだと思う。

人生を考え始めて、この問いにぶつかるとき、その深淵のような巨大な渦に対してどうしてよいかわからず、大抵の人はそれ(自分が死ぬこと)にしっかりと蓋をして見ないようにして、親や教師や世間によって植え付けられた既成の価値感・人生観でピッタリ蓋をしてしまって、つまり人生から「死」を切り離してしまうことになる。

ところが、そうすると、その人生というのは、とたん生命が失われた生存・生活だけの人生となり、いつも生存ボケしたアタマの中の相対的な価値感だけ追い回してばかりで、まるで蚊柱やウジ虫のようにウゴウゴ無方向にうごめくだけの状態に陥ってしまう。

あるいはその反対に「どうせ死ぬんだ」と極端な厭世観に陥ってしまい、自虐的・虚無的な生き方に陥る人もあるだろう。

これに対しては、雑駁なアタマでもって平面的な答えを出さず、立体的な答えを出すことが重要になる。

思いで解決しないという点で似たような命題に「卵が先か鶏が先か」という問いもあるが、たとえばこれに対しては「卵にとっては鶏が先、鶏にとっては卵が先、それが生命というものだ」というような答えを出すこと。

「どうせ死んでしまう」に蓋をする人生、

「どうせ死んでしまう」だけで死んだように生きる人生、

どちらも「生命の実物」を失った人生だ。

人間的な思惑による、あれかこれかという分別、良し悪しの価値感、そうしたちっぽけなモノサシで生命や人生(生命の実物)を判断しようとすれば、どうしたって平面的な答えになるし、あるいは全くもって訳がわからなくなって、思いの先っぽで煮詰まってしまい、合わせ鏡のような極限概念に行き詰まってしまう。

そうしたとき、当人のアタマの中で行き詰まっているのに過ぎないという点に気づいて、それをパッと手放して「生命の実物に立ち帰る」ことが必要になる。

つまり、人間的な思いの限界、アタマの分別や価値を越えた話として、

「”生死”それぐるみが生命なんだ」として見ること、「”生死”ひっくめて人生、”生死”を一つに貫いところに人生がある」という立体的な答えを出すこと。

生と死を、ひっくるめて生命といい、この生命を生きる一生が人生なのだ。

こうした「思い以上」のところで見渡す姿勢が大切になってくる。

常日頃からアタマの中で言葉や言葉によって抽象化された概念の世界だけにどっぷり浸かって生活していると、安易にアタマの思いが全てであり、そうしたアタマの思いだけで万事解決が付くと思いがちだ。

ところが実際アタマの中で分泌・精製される思いというものは生命の働きの一部にすぎない。人生における根本的・究極的な問題については、アタマの思いでは解決がつかないことのほうがむしろ多い。

思いでは解決しない「理不尽・不条理・不合理」がある、ということを思いで知ること、アタマの思い(心識-理屈)でもってアタマの思い(心識-理屈)の限界を知ること、このことがとても大切になる。

【この提唱に関する書籍】

死は「当然」、いま生きていることの「驚き」

普通は逆だと思う。

今生きていることが当たり前で、死ぬことは考えてもみない。今日があって当然明日があって「日常生活」といったものが維持され続けると思っている。そうして、いざ自分の死が目の前になったら驚愕と悲嘆と絶望でいっぱいになる。

しかし、よくよく考えてみれば、なんのことはない、生まれた限りいつ死んでもおかしくない生命なのだから、死こそ「当然・必然」であり、いま生きていることこそ「驚き」をもって受け取られるべきものであることがわかる。

ところが、死ぬことを切り離した世渡り地盤の価値観(生活・金)だけで生きていれば、生きていることにボケてしまうので、そうしたことを見据える目が曇ってしまっている。

概念としての時間軸の中での(過去の延長線上・未来に向かう途上としての)生命・人生は頭の中で描かれる幻影であり、本当の生命の実物は、いまここ、無の一点の現在に時々刻々として展開・変化していくようなあり方以外にはない。そこでは生死一枚ピッタリ存在している。この視点を曇らせてはならない。

生まれた限りはいつ何時でも死んでしまうような儚い存在としてのいのち。

それだからこそ大切に日々を生きていくという、人生のほんとうの深さに向かった生き方もできる。いつ病気・災害・事故・事件に遭わないとも限らない。それでいて、たしかに「今の息を今している自分がいる」この驚き。

若くして不治の病になっても、寿命と言われるような年齢で死の淵についても、やはり本能としては「死にたくない」と思うはずだ。

価値観と方向性をぐるりと転換しない限りは、どれだけ年齢を重ねても、ほんとうの意味での大人になりきれず、「死」を前にしても同じ世渡り地盤の世俗的な価値観と方向性で、病とたたかうという構図や、思うようにいかなければ腹を立てたり、グズったりして周りに迷惑をかけるようなことになる。

だからこそ、死は「当然・必然」、いま生きていることの「驚き」ということ、そうした生死をズバッと一本貫いた人生の真実地盤から見渡した視点をもって、自分の人生やその生き方そのものを見つめ直す目が、いつでも必要なのだと思う。

「死」を切り捨てた人生、「死」だけを凝視する人生

ほとんどの人は「死」を自分事ではない他人事の概念として捉えて、ひたすら「生活・生存」のため、世渡り処世のため生きているのが実状だと思う。

この人生態度、価値観だけで進むと、アタマの思いを絶対的なものとして、ひたすら世俗的な相対的価値観の幻想に翻弄され続けて、あたかも幸不幸・勝ち負けが実物としてあるように思い違いをして、そのために誤った判断や行動をとってしまうことがある。

そのうえ「死」を前にすれば、そうした思い違いをした判断や行動に基づいて、これまで懸命に積み上げ・築き上げ・我がものにした、手中にしたと思い込んでいた、その一切合切を手放さなければならない状況が待ち構えている。

また一方で、これも大事なことだと思うのだが、どうせ死んでしまうのだ、全て夢・幻のようなものなんだ、あれもこれも意味がない価値がない、それなのにあいつもこいつも馬鹿ばっかりだ、といって「死」だけを絶対的な権威に仕立てて、周りに毒をまくように当たり散らして、まるで人生は死ぬことが目的のような恨みがましい目つきと人生態度で日々を送っているような輩もいるが、それもまたおかしいと思わざるを得ない。

雑駁なアタマで極論に基づく単純思考をして、奥行きと深みのある多層構造の人生について見誤ってはならないと思う。

「死」を切り捨てた人生も、「死」だけを凝視する人生も、どちらも正しくない。

大切なことは、絶対事実としての「死(自分は死ぬということ)」も含めて見渡しのきく地点に立って人生の価値と方向を見直すこと。そのうえで「どっちにどう転んでも」という生命の事物に覚めた人生態度とともに「ただ今ここに生きる実物としての生命を大事に生きる」「出会う生命(他者・世界)を大切にする」という姿勢なのだと思う。

思い固められた私を手放すとき

死ぬということは、生まれてからその瞬間まで「私が、私が」「私の、私の」といってきた思いで固めに固めてきた「その私」を「その私自身」で手放すときなのだから、それは深淵に落ち込むような絶望感があり、相当の激しい抵抗があって当然だろう。

その瞬間まで、日々追い求め、積み上げ、築き上げてきた、私の成長発展、私の富財産・社会的地位・名誉、私の家族子どもたち、そのすべて、「これが私だ!」と思ってきた一切合財を手放さなければならない瞬間、それが死だ。

日々「私が、私が」「私の、私の」という思い、そうした思い固めに固めきった私として、所属する組織や社会・他者との関係性の上に見出していた「私」という舞台上の役どころが夢幻の如く雲散霧消するとき、それが死だ。

でも心配することはない、死とは「そうした思いぐるみ」死んでいくことなのだから。「生と死を分別する思い」それぐるみ死んでいくのだから、なにも心配することはないし怖がることもない。たとえ「なんで私が!」「死んでも死にきれない!」と言って慟哭して、右往左往していても何のことはない大丈夫、それでもちゃんと死んでいくんだ。

思い固められた自分、それは人生というほんの一時的な舞台の役どころであり、その衣装にすぎない。どっちにどう転んでも私は私、裸のまま生まれ、やはり裸のまま死んでいく。自分の思いにも他者の思いにも、まったく関係しない絶対真実のうちに死があり、生死がある、生命の実物(なまのいのち)がある。

願わくは今この瞬間に「思い固められた私」ではない「生命の実物(なまのいのち)」に確かに目覚めて、そこに限りなく深まっていく方向性をもって生き、そして死んでいきたい。

手桶に水を汲むことによって水が生じたのではない

手桶から水がなくなったって水がなくなったのではない

天地いっぱいの水が天地いっぱいの水に帰っただけ 

自分の死という盲点にピントが合うとき

「盲点」とは、眼球の奥の網膜から視神経がつながる、その1点で視野が欠けている状態で、実際にある。その「盲点」という視野の欠落は、両目で互いに補っているから普段は意識しないで済む。

「死」もそのようなものではないか。

とにかく「生活・生存」だけ、「金儲け・人付き合い・世渡り・処世術」という狭い範疇で、あれこれうごめいているだけの生き方では、生の裏側にある、生とともにある死、特に「自分の死」というのはまったく視野に入ってこない。

また、普段意識しているような「対象化された死」、つまり他者の死、概念としての死はすでに死そのものではない。死は「自分の死」が「自分の死」として不可避の状況に置かれてはじめて「あっ!」と気がつくような代物なのだ。

「自分の死」が「自分の死」として不可避の状況になってはじめて盲点である死にピントがぴたりと合う。そのとき「こんなところに落とし穴が!」と思っても手遅れである。

ところが、日々、日常において、その盲点である死にしっかりとピントを合わせて「生死ひっくるめての人生」として生きていく道筋がちゃんと用意されている。

それが仏教であり、仏法である。だからこそ尊いのだ。

仏教やそこに働く仏法は決して概念ではない、今ここに生きる(そして死んでいく)自分の人生の問題を根本から照らし出す限りない光なのだ。決して歴史的建造物・仏像・仏具などを眺めつつ、お賽銭を入れて柏手をたたくような代物ではないのだ。