「死」を切り捨てた人生、「死」だけを凝視する人生

ほとんどの人は「死」を自分事ではない他人事の概念として捉えて、ひたすら「生活・生存」のため、世渡り処世のため生きているのが実状だと思う。

この人生態度、価値観だけで進むと、アタマの思いを絶対的なものとして、ひたすら世俗的な相対的価値観の幻想に翻弄され続けて、あたかも幸不幸・勝ち負けが実物としてあるように思い違いをして、そのために誤った判断や行動をとってしまうことがある。

そのうえ「死」を前にすれば、そうした思い違いをした判断や行動に基づいて、これまで懸命に積み上げ・築き上げ・我がものにした、手中にしたと思い込んでいた、その一切合切を手放さなければならない状況が待ち構えている。

また一方で、これも大事なことだと思うのだが、どうせ死んでしまうのだ、全て夢・幻のようなものなんだ、あれもこれも意味がない価値がない、それなのにあいつもこいつも馬鹿ばっかりだ、といって「死」だけを絶対的な権威に仕立てて、周りに毒をまくように当たり散らして、まるで人生は死ぬことが目的のような恨みがましい目つきと人生態度で日々を送っているような輩もいるが、それもまたおかしいと思わざるを得ない。

雑駁なアタマで極論に基づく単純思考をして、奥行きと深みのある多層構造の人生について見誤ってはならないと思う。

「死」を切り捨てた人生も、「死」だけを凝視する人生も、どちらも正しくない。

大切なことは、絶対事実としての「死(自分は死ぬということ)」も含めて見渡しのきく地点に立って人生の価値と方向を見直すこと。そのうえで「どっちにどう転んでも」という生命の事物に覚めた人生態度とともに「ただ今ここに生きる実物としての生命を大事に生きる」「出会う生命(他者・世界)を大切にする」という姿勢なのだと思う。