染み付いた世間的価値観を転換させることの難しさ

世間的価値。それは生まれてからずっと親・学校教員・関係する友人・知人を介して叩き込まれ、そして世の中に渦巻く情報すべてにそれが溢れかえっているので、まるで空気のようなもの、疑うべからざるもの(疑う目すら持ち得ないもの)となっており、完全に自己暗示にかかった状態で、頭の芯から心の内奥まで染み込んでいる。

典型的には「お金」を絶対価値とすることだろう。それを軸としてあらゆる「世間的に」価値ありとされている一切の価値概念に死ぬまで翻弄されて生きているのが人間の姿だと思う。

これは宗教でも同じことだ。手を合わせれば御利益を願い、それが得られなければ「神も仏もあるものか」となる。あるいは精々御朱印という名のスタンプラリーを楽しむぐらいか。

「お金がご本尊さま」になっている限り、その同じ価値観でドツボにはまるのは致し方ないことだ。そのために晩年に尻尾を出す人がどれほどいることか。

かくいう私も同じことだ。世間的な価値概念が手放せない。自分の凡情に嫌気がさす。仏法を学んでも「オレのための仏法」では世間的価値と何が違う? 宗教はこうした染み付いた世間的価値を大転換させることなのだ。換言すれば生活・生存だけでなく「生死」を貫いた生死ひっくるめての生命(本来の我)に帰ることだ。

こうした私は、直下に時々刻々、発心百千億発、ということがやはり必要なのだ。