ついてまわる2つの思い:貪欲と不安

朝起きて坐を組む。思いはいつも「貪欲」と「不安」の間を行き来する

いや、朝起きた瞬間にすでにそうなのだ。

坐すればそれがより明確になり。普段はそれが意識されないほどに溶け込んで、その思いがために右往左往する。

 

坐を組む。やらなければならない仕事、やっておきたい仕事で心がざわついていて(急いでいて)突き動かされるのを感じる。ときに坐を組んでいることを失念するほどに思いのツタにぐるぐる巻かれていることに気づくこともある。そうして貪欲の根底には不安がある。

いつでも「あれをしておかなければ」「これをしておかなければ」あるいは「あれをしたい」「これをしたい」という思いが自分の中にうごめいているのを感じる。そうして「できなければどうしよう」と不安を感じ、その不安がさらに「〜だったらどうしよう〜になったらどうしよう」と先の不安を呼び起こす。

 

不安とあせり、果てしない貪欲。

「ああしたい、こうしたい」

「ああなったら嫌だ、こうなったら嫌だ」

それは様々な姿で現れては消え、消えては現れる、そうして永遠に満たされず、死ぬまでそうした思いに突き動かされていくのではないかと思われる。

いつでも「どうしたい」「どうしよう」と「追い求め」「逃げ回る」、こうしておそらくほとんどの人が生涯「欲望と不安のメビウスの輪」を回り続けるのだろう。世の中でそれらは「金」と「人間関係」の2つの姿に集約されているに違いない。

しかしそれは頭の中の映画で、すべて世間相場の他との兼ね合いによる約束事の世界だ、映画を「引き」で見ると、そこには映画ぐるみ今ここの「実物」がある。

坐禅をするとそれがありありと見えてくる。

坐禅をしてそれが永遠に消えることはない、どこまでいっても我欲をもった凡夫であるり、頭の思いぐるみが私なのだから。しかしながら、それが「思い」であることを思いで知ることはできる。そうして「思いを主人公にしない」態度、先にアテを描いてウゴウゴとうごめかない姿勢、そうした方向性をもって生きることこそが大切なのだ。