【哲学する仏教:内山興正老師の思索をめぐって】

内山興正老師による最初期の体系的著作「進みと安らい」に関する(特に自己曼画の図に対する)孫弟子筋や共鳴する哲学者による講演録。

4名による順番で構成されている。

藤田一照:坐禅・安らいつつ進む道

藤田一照さんは常識的なバランスの取れた見方をできる人なので、一番手として「進みと安らい」のアウトラインを非常にわかりやすく解説されている。

山下良道:マインドフルネスという黒船来航前の内山老師

続く、山下良道さんは、その独自の経歴もあって、当人の思い入れが強い「マインドフルネス」や「アップデート」を切り口にした文脈で多少恣意的に語られている感じがあるが、要するに「新しい見方の提案」ということで、「もう一つの意識」という見方を加えると、もっとわかりやすくなりますよね、という説明をされている。

つまり、内山老師の言われる第4図(アタマの思いだけで宙に浮いた生存的価値感だけの世界とそこで生存競争する私と他者:1/一切)と第5図(アタマを手放しにして本来の自己に立ち帰ったとき見えてくるアタマの思いそれぐるみ一切生命としての私:一切/一切)。この4図を包括した5図の見方について、これまでの見方の範囲内では結局「4図の中にいるまま(第4図から見ているに過ぎない)」ので、そうではなく、その4図の外から出た「もう一つの意識(もう一人の自分)」を設定することで、この5図の捉え方が相当クリアになりますよね、ということを言われているようだ。それでこの「もう一つの意識」こそが生命なのだと言われる。

しかしながら、内山老師は「アタマ(心識)をもってアタマ(心識)の限界を知る」ということ「それこそ最高の智慧」であるといわれている点から鑑みれば、いずれにしても同じことで「もう一つの意識」を設定している私も、それをアタマで捉えている以上は、やはりそれ自体がまた第4図の私なのであって、アタマの思いぐるみ一切生命(天地いっぱいの私、自己ぎりの自己、生命ぎりの生命)という世界は、どうしたって人間的思いの枠内では捉えられない・展開されないのだから、あくまで内山老師の示した第5図は方便なのであって、本当に大事なことは「アタマ(心識)をもってアタマ(心識)の限界を知る」ということ、これに尽きるのではないだろうか? 

と考えれば「もう一つの意識」という見方も一つの方便であって、人によっては(内山老師の自己曼画、特に第4図を含む第5図の)理解を深めるための重要な視座にもなれば、余計な付け足しにもなる。

ネルケ無方:内山老師のいきづまり

ここでのネルケさんのテーマは、生前内山老師が「進みと安らい」を絶版した理由であり、その理由と考えられる「どうして一切分の一切の自己(自己ぎりの自己 ・尽一切自己)から菩薩の実践(利他行)が出てくるのか?他者の命とのつながりがあり得るのか?」という疑問(矛盾)に焦点を当てている。

ここでネルケさんは、シモーヌ・ヴェイユの言葉や「順修行・逆修行」などの方向性を持ち出して、自己ぎりの自己の風景や中身として他者を愛するということは愛ではない、そうではなく誰も彼も自己ぎりの自己を生きているという点を認める点がなくてはならない、としつつ結局それがどうしてできるかは示していない(つまり行き詰まっている)。

本当の愛(つまり菩薩行)であれば、他者もそれぞれが世界の中心であることを認めなくてないけない、としているが、それは理想論であって実際に誰も彼れも自己ぎりの自己であると認めたところで、愛を実践する立ち位置としてはまさにその自己ぎりの自己の世界裡なのだから、それが本当の愛だとしても永遠に交わる点は出てこない。

一切/一切(つまり自己ぎりの自己)は同時に1/一切を内包しているのだから「順修行・逆修行」という分けた考え方を持ち出すのではなくて、一切/一切であると同時に1/一切であるような自己において生きざるを得ないという二重構造を踏まえたうえで「自己ぎりの自己の風景や中身として他者を愛する(他者の悩みは自分の悩みとして考える)」という実践こそ本当の愛ではないのかもしれないが本当にできる愛の実践(菩薩行)になるのではないだろうか。

1/一切としての自己でもあるのだから、人間性の限界として完全な菩薩行は現実的に不可能だと思う。できることは自己ぎりの自己の見渡した視点から他者をその内容に含めること、と同時にすべての人が自己ぎりの自己になるなり方としての坐禅(仏法)を正しく伝えること(誓願)、この両輪が現実的な菩薩の実践行とになるのではないだろうか。

この点に関しても、やはりアタマではなく、どこまでも「実際の生命体験(生きた自己ぎりの自己(自受用三昧)」として語られる必要がある(語られた時点で生命の実物からは遠ざかるだろうが)。

内山老師はよく目の前のコップを指して「このコップがどう見えているか、見える角度や光のあたりぐあいなどによって全ての人でそれぞれ微妙に異なる、すべての人で絶対に同じように見えることはない」と言っているが、当然「生命体験」いわゆる「ナマの生命」は他者と共有できない。

すなわち「天地いっぱいの自己、自己ぎりの自己、尽一切自己」とは「自他一枚」分かれる以前の生命なのだから、他は自己の内容であり風景である(すべて私である)。であるから「出会った限りわが生命として大事にする」という視点も出てくる。

それが「自己中心的な愛」であるという批判をしたところで、互いに絶対的な生命体験の場である「自己ぎりの自己」を認めあった地点からは、どこまでいっても矛盾と乖離が続いて永遠に愛の実践はできない。

内山老師がときどきに示される図はあくまで方便である。

内山老師はあくまで大衆に対する対機説法として図を用いていたと思う。それを真正面から捉えて、どこまでも図式や議論(言葉や概念)の上で解決(止揚?)しようとすると当然限界があり矛盾が生じるはずで、たとえ解決したとしてもそれも当人(ここではどこまでもネルケさん)の頭の中での解決に過ぎないだろう。

つまり「卵が先か鶏が先か」と同じで、そこでは「思いの限界を知る」という点から奥行きのある立体構造としての回答があって然るべきではないかと思う。ネルケさんは当然そのこともわかっているはずだが、よほど頭で考えて突き詰めることが好きな人らしい。あるいは永井哲学が隘路に誘い込んでいるのか?

「哲学する仏教」それは不毛な議論のことなのか?

露骨なまでの批判精神というか、思ったことは臆面もなくバンバン言うところは自己主張の強い西欧人的な所以か、はたまたネルケさん個人の性質に帰するところか、その両方なのかわからないが、これまでの藤田さんの簡素なイントロダクションと山下さんの独特の偏向的な論旨を踏まえると、このネルケさんのパーツがなかったらこの本は相当つまらないものになっていたであろうと思う。引用が多いためもあって全体で一番長くて頁数も多いが、その分読み応えのある内容がまとまっているので、何度も読み返す価値があると思う。

それにしても、内山老師に関する菩薩の話の中で、母親が子どもを自分の分身と考えているとする考えは怖いし危ないという批判があったが、内山老師は生前「子どもは親の分身でない!ということを私は拡声器をもって伝えたい」と何度も言っていたぐらいなので、この批判は内山老師にとっては相当の屈辱的なものに違いない。

こうした点にも見られる通り、読み応えのあるパートである一方で、ネルケさんによる読み違えやどこまでも矛盾を突くような頭でっかちで偏執的な性向が垣間見えるネチネチした批判的文章が良くも悪くも続くので、その辺はネルケさんと同程度の批判的精神をもって決して鵜呑みにせず(当人もそのつもりで話しているはずなので)内山老師の原著もしっかり読んで正しくバランスの取れた理解に務めないと危ないと(つまりこの本だけ読んでしまっては完全に片手落ちになる)いうことも付け加えておきたい。

永井均:内山興正の「いきづまり」を突破する

ネルケさんの話がQとして、それに対するAとなる視座として「私秘性」と「独在性」という見方を提示している。特に「独在性」という点が内山老師の言われる「自己」であるという点で「私秘性」と峻別している点で非常に興味深い。

「独存性」という点で個人的なエピソードがある。

最も幼い記憶で3歳〜5歳頃のことだったと思う。まったく一人っきりの部屋で着替えの服を探していたとき、ふと、私はAという名前の人物だが、Aという人物であるのは偶然によるもので、私というのはもっと根本的には別に存在しているのだ、というような観念というか想念がふっと思い浮かんだ。その瞬間に世界がぐっと広がって妙に静かな空間が開けてくるような奇妙な感覚があった。これはその後も1度あり2回ほど経験している。

このエピソードについて心理学的な分析などもできるだろうが、個人的には今改めて振り返って、これこそ幼心による「独存性」への「独存的存在」への無意識的な帰還、あるいは言葉と概念で埋め尽くされる前に残されていた本来的な存在感への回帰であったのではないかと思う。

「自己ぎりの自己、自分が自分を自分する、一心一切法一切法一心、一切分の一切」、いろんな言い方があるが、ここに立ち戻るここから見直し見渡すことの重要性に「独存性」という言葉で焦点を当ててくれた点は非常に良かったと思う。

また、哲学的な側面で道徳性について峻厳な判断をされている点も非常に良かった。

まとめ

本書を読むのであれば、藤田さんの概説、ネルケさんの問いかけ、永井さんの新しい視座と回答、だけ読めば十分かもしれない。ここに入る山下さんの考えは異質であり余り重要な視座にもなっていない用に思えるので、別に読むか読み飛ばしても問題ないだろう。

特にネルケさんが明確に描き出してくれた「進みと安らい」を巡る内山老師の思索の問題点とそれに対する永井さんの「独在性」という視座はただ内山老師の本を読んでいるだけでは盲点になって見えてこない新鮮かつ重要な見方を与えてくれている。

そうした意味において、この本は十分な価値がある。

ただしそれでも「この本から内山興正老師の本に入らず、本は最後に読んでもらったほうが良い」とは思う。たとえこの本で関心を持ったとしても内山老師のが実際に書かれた本や講義などを十分に読み聴きしてからのほうが良い。でないと見方や方向性がはじめから歪んでしまう可能性があるので、その点は要注意だ。