アイディンティティという幻想、中年の危機とはなにか?
人は成長過程において「自分とは何者か」という自我を形成する上での不安定期があって、それが思春期や青年期においてアイディンティティ(自己同一性)という形で落ち着くことによって、その後の安定的な成長過程が導かれる。
心理学的に規定する「アイディンティティ」いうのは、こういうことだと思う。
ところが「中年の危機」と言われるように「自分とはこうした者だ」と思っていたのが、とたんその安定形成されたように思われていた自己がグラグラぐらついて、やはり「自分とは何者か」「自分の存在価値とは」というような状況に陥ってしまうことが言われている。
たとえば、とある大学に入り、とある企業なり組織に入って、一つの仕事なり役職なりができて、それによって「自分は〇〇」であると思って、心の安定を保っていたのが、とたんにその足元がぐらついて、大病をしたり退職を余儀なくされたりする仕儀に陥った場合に、確立されたアイディンティティがなし崩しになるといった状況だ。
ここにおいて、たとえば長年培ってきた分野において新たに会社を立ち上げて経営者となって自分なりの価値観や生き方を見出して、そうして新たな一歩を歩みだすことによって一応の中年の危機たるアイディンティティの崩壊を防いで、その再構築を図ることができて、こうした危機的状況が生涯に渡って何度かあって、螺旋状に展開しつつ個々人はその人生において成長していくという図式が描けるらしい。
この図式は非常に滑稽なもので、いかにも心理学者がアタマでそれらしく描いた図式という気がする。本質的な点が全く欠落しているからだ。
そもそもアイディンティティ(私が私としてある意義)を相対的な世間地盤の価値観の上に立てることが見当違いの誤りだと言える。思春期・青年期にはそれなりにアテを描いて「自分は〇〇である」という道筋を対世間的・対社会的に描き出すことは、ひとまずの手段として必要かもしれない。
しかしながら、それは自分と他との関係性の上において、社会的な一定の役割において見出しているような、相対的かつ非常に脆弱な地盤において打ち立てられたものだなのだから、当然、中年の危機的にぐらついてしまうはずだ。それを同じ他との兼ね合いにおける対社会的・世間的価値観における地盤で打ち立てても、同じようにしばらくすれば「向こう側の変化によって」崩れ落ちるにきまっている。
どうあっても「私は私なのだ」。
本当に大事なのは、アイディンティティという幻想をそもそもアタマの中で描いていた自分は非常に未熟な自分なのだと気づくことだ。そのうえで、しっかりと絶対的な生命の地盤に自己を確立させることが重要になる。もし中年の危機があるとしたら(本来それ自体、当事者の頭が描き出した、また心理学者が対象化して強化した幻想に過ぎないのだが)、そうしたことに気づいて、絶対地盤に自己を確立させる(生命の実物地盤に立ち返って価値観そのものを見直す)ためのチャンスだと思わなければならない。
まず「アイディンティティ」という心理学者の浅薄な既成概念を、自己の生命の実物だと思いこんでしまう幻想からまず開放されること。
自己とは他に依存しない絶対地盤において(そもそも確率されて)ある。そもそも確立されている自己の生命そのものに気づいて、それに覚めることが大切だ。
「仏道とは自己をならうなり」といわれる道元禅師の自己とはこうした生まれ持った自己の生命地盤の自己に立ち返ること、覚めることを言われているのだ。
どっちにどうころんでも私は私で、青年の危機だ、中年の危機だ、あるいは老年の危機だ、などといって私が私でなくなるわけではない。むしろ、そもそも名刺に刷り込まれた肩書や子どもこそ我が人生と思って、他との兼ね合いによる自己を自己のアイディンティティと思い込んでいた状況から開放された「真の自己」に覚めた状況なのだと気づかなければならない。
なにも既成的なアイディンティティなど確立せずとも、私は私でこの世界のすべてを現成させて、アタマでどのように私を描こうとも、それとは全く関係なしに平然かつ悠然として存在しているのではないか。
生死をひっくるめた自己の実物は素っ裸の生命の実物であり「なまのいのち」である。本当の自己に覚めたければ、社会的な劇場における他に依存した(相対化した)役割としての自己を自己と思うことから覚めなければならない。
棺桶に入っている自分、そこから見つめ直すこと。
【この提唱の関連書籍】