死ぬということ

生きてるだけで丸儲け、でいいのか?

という言葉、これは明石家さんまが言い出したとか、そのへんははっきりしないが、「生きてるだけで丸儲け」という言葉は大衆に肯定的に受け入れられている感じがある。 それならば「死ぬときは全てご破算」とも言えるのではないか? だいたい、世の中のマジ…

人生の本当の価値に目覚める:まっさらな生命の実物地盤に立ち返るということ

自分が自分と思う以前に「私が私が、俺が俺が」という以前に、母体に命として生まれた瞬間にどうしたって片足は棺桶に突っ込んでいるんだ。 人生の本当の価値観に目覚めるためにはその棺桶から見直す必要がある。 つまり生まれる以前に堕ろされていてもおか…

どうせ死んでしまう、どうせすべてを失ってしまう人生、なのになぜ生きねばならないのか?

youtu.be 人生を考えるとき、そこにはいくつか難所がある。難所とは人生という大河にうずまく「渦(うず)」のようなものだ。 その最も大きな難所(うず)は、 「どうせ最後には死ぬ人生、それなのになぜ生きなければならないのか? しんどい思いをして勉強…

死は「当然」、いま生きていることの「驚き」

普通は逆だと思う。 今生きていることが当たり前で、死ぬことは考えてもみない。今日があって当然明日があって「日常生活」といったものが維持され続けると思っている。そうして、いざ自分の死が目の前になったら驚愕と悲嘆と絶望でいっぱいになる。 しかし…

「死」を切り捨てた人生、「死」だけを凝視する人生

ほとんどの人は「死」を自分事ではない他人事の概念として捉えて、ひたすら「生活・生存」のため、世渡り処世のため生きているのが実状だと思う。 この人生態度、価値観だけで進むと、アタマの思いを絶対的なものとして、ひたすら世俗的な相対的価値観の幻想…

思い固められた私を手放すとき

死ぬということは、生まれてからその瞬間まで「私が、私が」「私の、私の」といってきた思いで固めに固めてきた「その私」を「その私自身」で手放すときなのだから、それは深淵に落ち込むような絶望感があり、相当の激しい抵抗があって当然だろう。 その瞬間…

自分の死という盲点にピントが合うとき

「盲点」とは、眼球の奥の網膜から視神経がつながる、その1点で視野が欠けている状態で、実際にある。その「盲点」という視野の欠落は、両目で互いに補っているから普段は意識しないで済む。 「死」もそのようなものではないか。 とにかく「生活・生存」だ…

「死」を切り離して生きる人たち

このBlogの根本テーマである。 誰もが死ぬのに「死」はその直前まで置き去りにされている。 人生設計という言葉自体が滑稽であるが、これに「死」が含まれていないのは、どう考えても片手落ちだ。 生存ボケした世渡りの術だけが絶対価値とうい生き方では「死…

「なんで私が」といってみんな死んでいく

「私だけは大丈夫」という蓋「死ぬことを忌み嫌う」蓋その覆っている蓋が「無明の闇」を生み出しているのだ その蓋が開く時その蓋を開いて入っていかなければならない時それは100%確実にやってくるそのとき「なんで私が」となる 人生は「生まれて生きて、そ…