「死」を切り離して生きる人たち

このBlogの根本テーマである。

誰もが死ぬのに「死」はその直前まで置き去りにされている。

 

人生設計という言葉自体が滑稽であるが、これに「死」が含まれていないのは、どう考えても片手落ちだ。

生存ボケした世渡りの術だけが絶対価値とうい生き方では「死」はいつもスッポぬけている。

「生死」ひっくるめてこそ「生命」なのだ。

 

「死」それも「自分が死ぬ」という絶対事実から自分の生命・人生を常に見渡す目を持っていないと、人生の生き方やその地盤にある価値観や方向性がまるっきりおかしなことなってしまう。

 

少し散漫になってしまうかもしれないが、ここに「死ぬということ」の本質的な事柄をダイジェストでまとめておきたいと思う。

 


 

「天国で幸せに過ごしてください」

「どうぞ安らかに眠ってください」

 

いつでも「死」は他人事であり、絵空事である。

他人の死を前にして、たいていは、こんなおとぎ話のような言葉しか出てこない。

 

その向こう側においた「死」が、今ここの自分事なのだと気づいたときはどうか。

 

「まさか自分がガンになるなんて」

「まさか自分が死ぬなんて」

「死んでも死にきれない」

 

このとき自分と自分の人生から「死」を切り離して生きてきた人は、その価値観が正反対にひっくり返る瞬間なので、まるで青天の霹靂のような反応を示す。

 

「生(生存)」だけで生きてきた場合、たいていは「金・異性・健康」ぐらいが最高価値だから、それを丸ごと捨てて真っ逆さまに落ちていかねばならない。

「いや!オレだけは死なない!」

なんて言っても、大丈夫、その思いぐるみちゃんと死んでいくんだ。

「死を克服する!将来生き返るように保存してもらう」

という発想もあるらしいが、いかにも頭の先っぽだけで生きてきた人の発想だと思う。死のない生命があるとしたら、それはすでに生命ではない。

 

バリバリの政治家や経営者が、この「死ぬということがわからない人」の典型だといつも感じる。

 

いや自分を度外視しているようで申し訳ないのだが、70、80になって金や女や権力にしがみついているのは、どうも「死(自分の死)」がすっぽ抜けているとしか思えない。

国のトップや企業のトップなど、永遠に生きるつもりかのような顔で、あれこれやっているが、つくづくその顔を見ながら、自分が死ぬことだけは蓋をしているのだな、という気がしてならない。

 

「死(自分の死)」から人生を見直して、そこに絶対的な最高価値を置いて生きていく態度であれば、人生において決定的に誤った選択はしないで済むと思う。

だから、いつでも「死(自分の死)」から人生を見直し見直しして生きていきたいと思うし、そうした点においてこそ、仏教や宗教の存在意義もあるのだ。