内山興正老師の提唱録リスト

正法眼蔵味読会

出典(音声ダウンロード):内山興正老師「正法眼蔵」提唱録公開 - 十方世界共生山一法寺
YouTube再生リスト「内山興正 正法眼蔵」

# 年月 場所 書籍
1 八大人覚 1978.1 65 宗仙寺@京都

9

  • 原文朗読を省略、提唱日の区切りなし、全体に編集加工済み
  • 録音の編集状態もそうだが、他の提唱に比べて「エッセンス」としてのところ、かなり本質的なところを簡潔にスバっとまとめているので、この録音だけ繰り返し聞くだけでも良いかもしれない。
  • これは「釈尊最後の教勅にして先師最後の遺教なり」とあるように、最後のまとめ(総結論・遺言)としての巻である。一番大切なところをまず見て、それから(総結論に照らし合わせながら)それ以前の他の巻を見ていけば分かり良いのではないか(見当はずれにならず、正法眼蔵全体を読み進めることができるのではないか)と考え、味読会の第1回目としてこの巻を選ばれた。
  • 遺言の先渡しをしたい、ということ。
  • 我々は小人である。見た目だけ大人の疑似大人である。その実は膨れ上がった自我で思う通りにならないと愚図ってばかりの有様。
  • 本当に人生に覚知する(覚めて知る)ことによって本当の大人になること。それが大人覚。
  • 2-16 真実とは「思っても思わなくても、信じても信じなくても、疑っても拒絶しても、絶対そうだという絶対事実に落ち着くこと」それが真実。「真実に生きる」とは、そうした「絶対事実に随順して生きる」ということ。
  • 自己を生きるのは自己だけ、自己の実物を生きるということは、世間体で相対的な存在として生きるのではない。他との兼ね合いである自己は不真実。
  • 生命とは「生まれて、生きて、死ぬ」ということ。人生とはただの生存ゲームではない。死ぬということも計算に入れなければ人生にならない。そして「生まれて、生きて、死ぬ」という私の人生・私の生命こそが最高価値であり絶対価値である、ということを(アタマではなく身をもって)知ることが大切。
2 摩訶般若波羅蜜 1979.9-11 67 宗仙寺@京都 6
  • 「摩訶」「般若」「波羅蜜」一番大事なところが一番はじめに出ている。
  • 仏教という缶詰をただありがたがって、その保管と移動だけをしてきたのが日本仏教の歴史。それを実際にあけて味わおうというのが、正法眼蔵味読会(この録音された宗仙寺での提唱)の趣旨。「摩訶」「般若」「波羅蜜」という言葉もそういう意味で実際に味わってみる必要がある(自分の人生に引き付けて根本的に考えてみる必要がある)。
  • 「色即是空」「空即是色」を実際に落とし込むと(道元禅師の注釈によると)「色是色」「空即空」「只是是」になる。すなわち「迷中に行を立つ」「証上の修」ということが大切であると言われたいがために、この摩訶般若波羅蜜の巻が書かれている。
  • 般若を学するとは「虚空」を学すること。すなわち「無所得、不可得」、取引なしのところで「ただやる」こと。これが人生態度の最も重要なところ。
3 一顆明珠 1979.12-1980.2 67 宗仙寺@京都 5
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4 即心是仏 1980.3-5 67 宗仙寺@京都 5
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5 諸悪莫作 1980.6-12 67-68 宗仙寺@京都 5
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6 有時 1981.1-4 68 宗仙寺@京都 5
  • 何度も聞かないと本筋のところを理解するのが難しい。どの話もそうだが、眠らせないように、おそらく予め仕込んでおいた脱線した話の方が頭に入ってきて、それ以外に話している核となる部分にピンときていないために聴き損じているということがある(ということに、何度か聴いていると気がつく)。
  • 【#7】宗仙寺の普請をしているのか「カンカン」という金槌を打ち鳴らすような音がひどい。45分あたりで音飛びあり。
  • 【#8】34分あたりから次回の「山水経」に移行する(イントロダクション)。
8 山水経 1981.5-10 68-69 宗仙寺@京都 5
  • 私たちは日々様々に抽象化された既成概念における世界で生きている。あれは何々これは何々、いちいち言葉によって分別し、抽象化したものを実物だと思って、それで全てがわかったようなつもりで生きているわけだが、生命の実物(生死をひっくるめた自己の人生の真実)は、そうした抽象概念によって覆い隠されてしまう。今その覆いを取り去って生命の実物を明らかにするには、どうしてもそこを飛び越えた話として語られなければならない。山水経ではそのあたりを提唱されている。いつもアタマを主人公にして概念的な見方や考え方しかできていない、そうした自分を手放しにする姿勢こそ坐禅である。坐禅によってただその姿勢によって普段見失っている生命の実物(本来的自己)に出会う(帰る)ことができる。総じて人生の方向についての話。
9 法華転法華 1981.11-1982.6 69 宗仙寺@京都 5
  • 「心迷法華転、心悟転法華」という六祖慧能のコトバを取り上げた提唱。冒頭にも「十方仏土中は法華の唯有なり」というコトバもある。つまり我々はいつでもアレかコレかで迷っているが、どっちにどうころんでも、どういう境遇にあっても、いつでも生命の実物に引っ張られている、そこに深まっていく以外にない、ということ。関連して「開示悟入」「無二亦無三」「唯有一仏法」という重要な視点が頻出する。
  • 提唱月日不明・原文朗読なし。他と比べて提唱回数が多く、ファイルの点数も多い。法華経の華美で冗長な原文が提唱にも影響していて全体にやや散漫な印象を受ける。
10 古鏡 1982.7-1983.1 70 宗仙寺@京都 5
  • 古鏡は全てが2つに分かれる以前の「生命の実物」を映し出している。古とは古い新しい分かれる前の古さ。我々は日頃2つに別れた以後の概念的な世界であれかこれかと始終自分の思いに振り回されて生きている。そうした「低いところで乱れない高いところから見渡す姿勢」生まれる前に堕ろされたところから見る姿勢、そうしたアタマ手放しの姿勢について提唱されている。
  • すべての回で提唱月日不明
  • 【#1】通算50回。近くで普請しているのか「カンカン」という金槌を打ち付けるような音がひどい。
  • 【#5】30分あたり思いは頭の分泌物という名言の最高の解説が聞ける
  • 【#7#11#12】音声が非常に小さく聞き取りづらい
  • 【#11】古鏡の要点を示す原文を抜粋してまとめて解説してくれている。またそのあとに、磨いても磨かなくても古鏡(修行してもしなくても同じ、しかし修行するというところの根拠は?)という点を踏まえて「なぜそもそも正法眼藏を学ぶのか」生死の問題についての重要な話が続く。
11 恁麼 1983.2-5 70 宗仙寺@京都 5
  • 本来は「仏性」をやる予定だったが、仏性に「”一切衆生、悉有仏性”は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来の道転法輪なり」とあるところから、仏性の前の導入としてやることになった。
12 仏性 1983.5-9 70 宗仙寺@京都 5
  • 「仏性」とはなにか? そもそも「仏性」の定義が正しく知られなければ、この仏性の巻もすべて読み違えてしまう。一般的には「誰にでも仏性はあります」程度で、なにか梅干しの種みたいなものがある程度の理解しかない。しかしながら仏性とは全くそのような何かカッチリしたものがある、というものではない。仏の性質程度の話ではない。
  • この提唱では、はじめからこの仏性の定義を問題(前提)としており、初回からその典拠(仏典)を挙げられているわけだが、最後の第4回(録音では7回目)の冒頭10分でそれを改めてスッキリとまとめられている
  • 仏性とは涅槃経で「第一義空」のこと→第一義とは般若経で「涅槃」のこと、また空とは同じ般若経で「常にあらず滅にあらず」ということ→涅槃とは涅槃経で「煩悩所結の火を滅す」ということ、また涅槃とは「畢竟帰」に名付くとある
  • 煎じ詰めて言えば、仏性とは「畢竟帰(ひっきょうき:つまり帰るところ)」であり、生命の実物(なまのいのち)に時々刻々立ち帰ることであり、生死をひっくるめた生命のありかた、生命の働きそのものである。ただ有るか無いかという話ではない。
  • 極論すれば、毎日金金と思って投資なんてやっていると、世の中のあらゆる事象を金勘定してしまう。そうした人は(いつでも頭だけで、生命の実物から宙に浮いた状態になっているから)仏性はどうせ現れてこない。現れる可能性があるとすれば「死」を前にして、その金金という思いの幻影を手放さなければならなくなった時だろう。頭を手放したとき生命の実物が現れる。
  • 仏性とはつまり「生命の実物に時々刻々に的中していく道」(中道)ということ。頭の重いだけを主人公にして、死を切り離した生存だけで生きないということ。
  • 私私と思いで掴まなくてもある自己、思い以上の自己、生命の実物、なまのいのち、生死ひっくるめた生命のあり方、そこに頭覚め覚め帰る。
  • 【#8】提唱は中途で終わっている。【#8】の途中(18分あたり)から、自身の最新の著作「<生死>を生きる:私の生死法句詩抄」についての解説に入る。
13 供養諸仏 1983.8 71 無量寺@塩尻 5
  • 老師は8月には宗仙寺の提唱をお休みにして、避暑地としてほぼ毎年信州塩尻に行っており、避暑中、無量寺(尼寺)で青山俊董に乞われて提唱をしている。この「仏性」もその間に話された内容。無量寺での話は環境や聴衆が異なるためか笑い(つまり脱線)が多いのが特徴。
  • この提唱の録音を聞きはじめていた頃は笑いや脱線のほうに気を取られて、雑談の方に意識が向き勝ちになっていたが、何度も聞くうちに本筋の正法眼蔵の話が如何に聞こえていなかったか思い知らされる。
14 行仏威儀 1985.1   宗仙寺@京都 5
  • 録音「03・04」は「07・08」の誤りなので修正すること。「03・04」は録音なし(欠落)
15 現成公案 1985.12   宗仙寺@京都 5
  • 過去の現成公案意解から更に一鍬掘り下げる。
  • 仏法として読むということは、相対・比較を絶して読むということ。
  • 仏法とはまさしく自他の見をやめて学するなり(弁道話)
16 坐禅 1986.4   宗仙寺@京都 5
  • 録音状態が悪いうえに、7回8回(1日分)が欠落している
  • 道元禅師は坐禅の本筋として薬山禅師の話を始めに述べられる。すなわち「思量箇不思量底、如何思量、非思量」。これを内山老師は「頭手放し、思い手放し」という言い方で注釈される。これは無念無想(無思量)ではない。生き物として頭の思いがあるのが当然。大事なことはそれを追いかけないことである。澤木老師いわく「見渡しのきくところに立って、低いところで乱れぬことである」
  • 「非思量」とは「非思の量」。思いでは掴みきれない生命の中身。
  • 生死、幸不幸、迷悟、極楽地獄、等々、頭の思い・分別で捉えるのではなく、そうした分別が分かれる以前・思い以上のところに思いを働かせることが大切。仏法とはそうした目が開かられることにある。生死は仏の御命。
  • 思いで我執で捉えたような、分別やはからいで誂えたような、あざとい悟りや救いは、相対概念として思いの中の既製品でしかない。
  • 問答で競り合いして勝った負けたは仏法ではない。普遍的・絶対的宗教ではない。坐禅も世間的地盤のまま勝ち負けや個人的力量を付けるための道具にしていては本当の坐禅にはならない。その点を戒めるための話をまとめられたのがこの坐禅箴である。
  • 社会的性格(常識・理性)などは仏法を隠してしまう。言語・概念然り。
  • 南嶽・大寂の磨塼の問答を引用される。
17 如来全身 1986.8   無量寺@塩尻 5
  • 如来の定義「若見諸相非相即見如来・無処従来亦無処去光明如来」(金剛般若経
  • あらゆる相が姿形をなしていない、あるがごとくなきがごとく、きたるがごとくさるがごとく、なにも相とういのが決まっていない。生死は仏の御命。信じても拝まなくても、我々はそうした絶対的な御命を生きている、如来はいつでもそこにいる、そのことに気付けるか、覚め覚めて深めていけるか、ということ。
  • 人生の価値、根本的な狙いが、この御命、なまのいのち。
  • 初心(頌偈):思っても思わなくても、受け入れても拒絶しても、いつも全く新しい、生きているこの御命(おんいのち)。発心百千万発、いつでも初心で生き、御命に深まろう。今の息を今しつつ、はじめて歳もとっていくのだから。
18 身心學道 1987.1   宗仙寺@京都 5
  • 心学道とは、赤心片々、古仏心、平常心、三界一心
  • 赤心片々とは、前後際断した完結完結した無常心。古仏心とは人情の加わる以前の心、平常心とは常と無常と分かれる以前の心、三界一心とは見られる欲界・色界・無色界と見るところの自己が一つであること、能所分かれる以前の心。
  • すなわち頭で二つに分けてしまう以前のあり方を「心」という。思っても思わなくても信じても信じなくても疑っても拒絶しても、そうした心を通して学ぶことが仏祖の法を学ぶこと、そうした命(仏の御命としての生死)に决定すること。
  • どっちにどうころんでも御命。生死は仏の御命。そこに决定してはじめて揺るぎない大安楽を得る。
  • 仏教の話は「すべて二つに分かれる御命」の話だ。
  • 本当は求めようもなく落ちこぼれようもない自分の御命に帰っていく静まっていく、それが大切。
  • 「いったい何のために生まれてきたのか?」なぜ生きるか、どう生きるか、その方向性と価値観。
  • 生死去来真実人体。面々みな生死なるゆえに恐怖すべきにあらず。生死とも凡夫の知るところにあらず。生也全機現・死也全機現。
  • 生死ふたつに分かれる以前の実物の生命の深さで生き死にする。
19 発無上心 1987.4   宗仙寺@京都 5
  • 現在は「発菩提心」となっている巻。
  • 未読会の最後の回。
  • 「一発菩提心を百千万発するなり」として内山老師が繰り返し引用している言葉はこの巻から。今の息は今しながら生きる。
  • 病床に伏して休んでいたとき「御いのち抄」を書いていた。この「御いのち抄」を書いているときに「生命の実物」から「なまのいのち」に言葉を変える(#3冒頭)。

講演集

出典:内山興正老師講話集公開 - 十方世界共生山一法寺

# タイトル 年月 場所 書籍
1 修行_私の体験を語る 1974. 61 不明   複数
  • 安泰寺堂長時代の貴重な講演。内山老師のプロフィール・修行時代・思いや考えなどが本人によって具体的に語られており、内山老師を理解するうえでも重要な録音
2 生存と生命_人生科講義 1981.1-6   朝日カルチャーセンター 複数
  •  
3 生死を生きる 1983  

NHKテレビの録音?

複数
  •  
4 生死法句詩抄 1983.8   無量寺@塩尻 3
  •  
5 延命十句観音経 1985.8   無量寺@塩尻 3
  • 日航機事故直後の提唱

ついてまわる2つの思い:貪欲と不安

朝起きて坐を組む。思いはいつも「貪欲」と「不安」の間を行き来する

いや、朝起きた瞬間にすでにそうなのだ。

坐すればそれがより明確になり。普段はそれが意識されないほどに溶け込んで、その思いがために右往左往する。

 

坐を組む。やらなければならない仕事、やっておきたい仕事で心がざわついていて(急いでいて)突き動かされるのを感じる。ときに坐を組んでいることを失念するほどに思いのツタにぐるぐる巻かれていることに気づくこともある。そうして貪欲の根底には不安がある。

いつでも「あれをしておかなければ」「これをしておかなければ」あるいは「あれをしたい」「これをしたい」という思いが自分の中にうごめいているのを感じる。そうして「できなければどうしよう」と不安を感じ、その不安がさらに「〜だったらどうしよう〜になったらどうしよう」と先の不安を呼び起こす。

 

不安とあせり、果てしない貪欲。

「ああしたい、こうしたい」

「ああなったら嫌だ、こうなったら嫌だ」

それは様々な姿で現れては消え、消えては現れる、そうして永遠に満たされず、死ぬまでそうした思いに突き動かされていくのではないかと思われる。

いつでも「どうしたい」「どうしよう」と「追い求め」「逃げ回る」、こうしておそらくほとんどの人が生涯「欲望と不安のメビウスの輪」を回り続けるのだろう。世の中でそれらは「金」と「人間関係」の2つの姿に集約されているに違いない。

しかしそれは頭の中の映画で、すべて世間相場の他との兼ね合いによる約束事の世界だ、映画を「引き」で見ると、そこには映画ぐるみ今ここの「実物」がある。

坐禅をするとそれがありありと見えてくる。

坐禅をしてそれが永遠に消えることはない、どこまでいっても我欲をもった凡夫であるり、頭の思いぐるみが私なのだから。しかしながら、それが「思い」であることを思いで知ることはできる。そうして「思いを主人公にしない」態度、先にアテを描いてウゴウゴとうごめかない姿勢、そうした方向性をもって生きることこそが大切なのだ。

生きてるだけで丸儲け、でいいのか?

という言葉、これは明石家さんまが言い出したとか、そのへんははっきりしないが、「生きてるだけで丸儲け」という言葉は大衆に肯定的に受け入れられている感じがある。

それならば「死ぬときは全てご破算」とも言えるのではないか?

だいたい、世の中のマジョリティの価値観で言えば、生きている側面、ただ生存だけの側面からしか語られていない場合が多い。人生設計と言っても、たとえ終活といっても結局、生存の側からの目線しかない。

重要なことは、生死を貫いた視点、生死をひと目に見渡す視点、生存だけでなく死も含めた「生命地盤」での価値観ではないか。

であれば「生きてるだけで丸儲け」では片手落ちだ。あるいはその価値観でいけば「死ぬときは全てご破算」で、「あなたは癌です」と言われた日には奈落の底に落ちていくような絶望に陥ることになるだろう。

たとえ生きても死んでも、今ここの生命に落ち着く。「不生不滅」というところに本当の安心があり、本当の価値観も見えてくる。

そのためにはまず「死」を「自分の死」を念頭に置いたうえで価値観の転換を図らないと、ただの「生きてるだけで丸儲け」では結局のところ生死を貫いた「生命地盤」ではなく「生存地盤」だけの世間的な損得の価値観の延長線上なのだから、そこで右往左往することになってしまう。

思う通りにいかない人生

おおよそ自分のこれまでの人生を見渡して、また、世の中の様々な人の有り様・出来事を見るにつけ、すべて煎じ詰めたところ「どうして私の思うとおりいかないんだ」とぐずっている姿でしかないのだということを、特に最近になってつくづく感じるようになった。

この世の中は「ぐずり合いの広場」とは内山老師の言葉である。

すべて世の中のニュースを見ても、思い通りにやろうとして、その思い通りに行かずにぐずっている状態、暴れている状態、あるいはその結果、だけではないか。

その反対に思い通りに行って浮かれている状態、これもまた結局道理は同じだ。

私たちは常に頭の思い・思惑(思枠)に振り回されて、がんじがらめになって(いることにも気づかず)ただ、自分の思いを満足させること、思い通りにやること、自分が納得して、自分が満足すること、だたそれだけに躍起になっている。

そうして、思い通りに行かなければ、ぐずって周りを振り回して、反対に思い通りに行けばニヤリと笑って悦に入る。

この自分の思い・思惑(思枠)が悩み苦しみの根本要であるということに本当に気づかなければならない。

自分の思いを主人公に行動しているだけでは、生涯にわたって人生の真実からは程遠く、その最期にはどうしたって思い通りに行かない「死」の前に絶望しかない状況に陥ってしまう(思いを働かせるのであれば、そうした方向でなくてはならない)。

思いの先っぽを寝ても覚めても追い回し、思いの果てに思いごと死す。その思いとは何なのか?という方向に思いを働かせてみよう。

【イワン・イリッチの死】章タイトル(私案)

  1. 弔問(傍らから見た死)
  2. その生涯
  3. 世間的幸福の追求(憂愁と虚栄)
  4. 兆候(世間的価値の消失と転換)
  5. 変化
  6. 目隠し
  7. 虚偽
  8. 孤絶
  9. 苦悶(生死の謎と奇怪な想念)
  10. 追憶
  11. 新しい目(生死を貫く視点)
  12. 死(不生不滅不垢不浄不増不減)

染み付いた世間的価値観を転換させることの難しさ

世間的価値。それは生まれてからずっと親・学校教員・関係する友人・知人を介して叩き込まれ、そして世の中に渦巻く情報すべてにそれが溢れかえっているので、まるで空気のようなもの、疑うべからざるもの(疑う目すら持ち得ないもの)となっており、完全に自己暗示にかかった状態で、頭の芯から心の内奥まで染み込んでいる。

典型的には「お金」を絶対価値とすることだろう。それを軸としてあらゆる「世間的に」価値ありとされている一切の価値概念に死ぬまで翻弄されて生きているのが人間の姿だと思う。

これは宗教でも同じことだ。手を合わせれば御利益を願い、それが得られなければ「神も仏もあるものか」となる。あるいは精々御朱印という名のスタンプラリーを楽しむぐらいか。

「お金がご本尊さま」になっている限り、その同じ価値観でドツボにはまるのは致し方ないことだ。そのために晩年に尻尾を出す人がどれほどいることか。

かくいう私も同じことだ。世間的な価値概念が手放せない。自分の凡情に嫌気がさす。仏法を学んでも「オレのための仏法」では世間的価値と何が違う? 宗教はこうした染み付いた世間的価値を大転換させることなのだ。換言すれば生活・生存だけでなく「生死」を貫いた生死ひっくるめての生命(本来の我)に帰ることだ。

こうした私は、直下に時々刻々、発心百千億発、ということがやはり必要なのだ。

人生の本当の価値に目覚める:まっさらな生命の実物地盤に立ち返るということ

自分が自分と思う以前に「私が私が、俺が俺が」という以前に、母体に命として生まれた瞬間にどうしたって片足は棺桶に突っ込んでいるんだ。

人生の本当の価値観に目覚めるためにはその棺桶から見直す必要がある。

つまり生まれる以前に堕ろされていてもおかしくない、生死ひっくるめたのが生命の本来のあり様だ。そこからいつでも人生を見直すこと。

私たちはいつも抽象概念で作り上げられた頭の世界だけで生きている。なんとはなしに社会的・世俗的価値観だけが人生だと思いこんでいる。

そうした地盤だけから人生を見ていればどうせ片足が棺桶という人生の真実から片足踏み外しているんだし、だから金・地位・名誉でのぼせ上がっている状態で「あなたはがんだ」と言われた瞬間に頭真っ白になって奈落の底に落ちるような思いもしなくてはならなくなる。それでは遅すぎる。

抽象概念で宙に浮いた頭の思いを手放して、生命の実物・ナマの命にいつでも何度でも繰り返し目覚めること、それだけが大切だ。

youtu.be

思い以上の「私」

普段、私と思っている私は「業識」としての私。つまり、どこで生まれて誰を親としてどういう環境で状態で生まれ育ったか、そこでどういう教えを受けて影響を受けて何を価値概念として身につけたか、あらゆる偶然の産物としての集合体を私だと思い、その私をもって「私が」「私の」といって生きている。

そうしたあいまいな偶然の集合体としての私が、常に「ああしたい、こうしたい」「あれはいやだ、これはいやだ」とあれこれアタマで思い描いて、内面から突き上げてくる永遠に満たされない渇望に従って生きている、いやウゴウゴウジ虫のように蠢いているあり様が人間であり凡夫であり人生の縮図だ。

そうした私は死ぬことが絶対に決まっている存在であり、生まれる前に堕ろされていても良いはずの存在であり、たまたまの私であるので、本来だれであってもよかった私としての人生でもある。実にいい加減であいまいな私なのだ。

しかし同時にそうした私は世界で一人きりである。アタマで思い描けばいい加減であいまいな私が、この世界を現成している命の全てでもある。アタマで思い描けば常に満たされず迷いのさなかにある私だが、そうした思いから覚めたとき生命の実物に気づく。私は思い以上のところでは完結していて完全に満たされている。今の息を今することそれがすべてのすべてだ。生命とは生存だけでなく生死させる力それぐるみ生命である。すべてのすべてとは比較や分別を絶しているということ、つまり生死分かれる前の不二の生命。そこにこそ絶対的価値をおいて生きること。これが死んでも死なない生命を生きるということ。

そうしたところに决定するとき、この世界アタマで何を思おうが、どっちにどうころんでも我が生命として絶対的安心の地盤に生きていくことが出来る。尽十方仏土中とはそういうこと帰命尽十方無碍光如来とはそうした生命であり、思い以上の私のこと。

自分の思いを主人公とせず、その思いを手放すこと、無所得。こうした方向性や価値観は全く世の中の大半の人の人生観と真逆を示している。ほとんどの人は、自分の思いを主人公にして、それに振り回されて、何かをつかむ(得る)ことばかりを考えている。生命の実物から離れて宙に浮いたおもちゃ遊びが人生のすべてと思って夢うつつに苦しんだり喜んだりしているのが大半の人の人生の有様だと思う。それがあまりにも虚しくて自殺もできない人は自分を捨てて人生の見方そのものを転換する必要がある。