死は「当然」、いま生きていることの「驚き」

普通は逆だと思う。

今生きていることが当たり前で、死ぬことは考えてもみない。今日があって当然明日があって「日常生活」といったものが維持され続けると思っている。そうして、いざ自分の死が目の前になったら驚愕と悲嘆と絶望でいっぱいになる。

しかし、よくよく考えてみれば、なんのことはない、生まれた限りいつ死んでもおかしくない生命なのだから、死こそ「当然・必然」であり、いま生きていることこそ「驚き」をもって受け取られるべきものであることがわかる。

ところが、死ぬことを切り離した世渡り地盤の価値観(生活・金)だけで生きていれば、生きていることにボケてしまうので、そうしたことを見据える目が曇ってしまっている。

概念としての時間軸の中での(過去の延長線上・未来に向かう途上としての)生命・人生は頭の中で描かれる幻影であり、本当の生命の実物は、いまここ、無の一点の現在に時々刻々として展開・変化していくようなあり方以外にはない。そこでは生死一枚ピッタリ存在している。この視点を曇らせてはならない。

生まれた限りはいつ何時でも死んでしまうような儚い存在としてのいのち。

それだからこそ大切に日々を生きていくという、人生のほんとうの深さに向かった生き方もできる。いつ病気・災害・事故・事件に遭わないとも限らない。それでいて、たしかに「今の息を今している自分がいる」この驚き。

若くして不治の病になっても、寿命と言われるような年齢で死の淵についても、やはり本能としては「死にたくない」と思うはずだ。

価値観と方向性をぐるりと転換しない限りは、どれだけ年齢を重ねても、ほんとうの意味での大人になりきれず、「死」を前にしても同じ世渡り地盤の世俗的な価値観と方向性で、病とたたかうという構図や、思うようにいかなければ腹を立てたり、グズったりして周りに迷惑をかけるようなことになる。

だからこそ、死は「当然・必然」、いま生きていることの「驚き」ということ、そうした生死をズバッと一本貫いた人生の真実地盤から見渡した視点をもって、自分の人生やその生き方そのものを見つめ直す目が、いつでも必要なのだと思う。