思い固められた私を手放すとき

死ぬということは、生まれてからその瞬間まで「私が、私が」「私の、私の」といってきた思いで固めに固めてきた「その私」を「その私自身」で手放すときなのだから、それは深淵に落ち込むような絶望感があり、相当の激しい抵抗があって当然だろう。

その瞬間まで、日々追い求め、積み上げ、築き上げてきた、私の成長発展、私の富財産・社会的地位・名誉、私の家族子どもたち、そのすべて、「これが私だ!」と思ってきた一切合財を手放さなければならない瞬間、それが死だ。

日々「私が、私が」「私の、私の」という思い、そうした思い固めに固めきった私として、所属する組織や社会・他者との関係性の上に見出していた「私」という舞台上の役どころが夢幻の如く雲散霧消するとき、それが死だ。

でも心配することはない、死とは「そうした思いぐるみ」死んでいくことなのだから。「生と死を分別する思い」それぐるみ死んでいくのだから、なにも心配することはないし怖がることもない。たとえ「なんで私が!」「死んでも死にきれない!」と言って慟哭して、右往左往していても何のことはない大丈夫、それでもちゃんと死んでいくんだ。

思い固められた自分、それは人生というほんの一時的な舞台の役どころであり、その衣装にすぎない。どっちにどう転んでも私は私、裸のまま生まれ、やはり裸のまま死んでいく。自分の思いにも他者の思いにも、まったく関係しない絶対真実のうちに死があり、生死がある、生命の実物(なまのいのち)がある。

願わくは今この瞬間に「思い固められた私」ではない「生命の実物(なまのいのち)」に確かに目覚めて、そこに限りなく深まっていく方向性をもって生き、そして死んでいきたい。

手桶に水を汲むことによって水が生じたのではない

手桶から水がなくなったって水がなくなったのではない

天地いっぱいの水が天地いっぱいの水に帰っただけ