価値観と方向性(円の理論を敷衍する)
「死」の一点から見つめ直した(見渡した)人生か、「死」を切り捨てた(蓋をした)人生か。この視点の違いによって、価値観と方向性が全く異なってくる。
「円の理論」の冒頭に挿入した、以下の図を見てほしい。
ここでは、アタマで思い固めた私と同じアタマでやり取りする他者との比較のうえで成り立つ世界に向かう宙に浮いた「→(矢印)」と、そのアタマぐるみ死もひっくるめた生命の実物としての私の命の地盤に覚め覚めて深まっていく「→(矢印)」の2つが描かれている。
ここに価値観と方向性の核心がある。
アタマの先っぽだけで思い描き思い固めした世界だけに価値と方向を置くと、死を切り捨てた生存だけの人生観という他者との約束事の概念世界・観想念の中だけで生きていくことになる。
この価値・方向でもって生きるとなると、当然そこでの絶対的(本当は相対的)価値である「物欲・性欲・権勢欲」または「健康・自分の子ども・家族」を拠り所(ご本尊)にして、そうしたものを軸に他者と奪い合い・競り合いをして「あれかこれか」「損か得か」「勝ちか負けか」に振り回され続けることになる。
そうなると、そのために他者を攻撃することも選択肢となってしまう。どうせ死んでいく私なのに、それが頭の先っぽだけだとすっぽ抜けてしまうから不思議だ。こうして価値と方向を間違えると、根本的な「見誤り」で誤った言動を選択・実行してしまう。
また、死ぬときは死ぬときでその同じ頭の先っぽだけの物差し(価値観)だけで測るのだから、さんざんにもがいてもがいてジタバタするし、当然絶望的になる。もちろん死に際しては生理的な苦しみ心理的な苦しみがあって当然だ。しかし日頃から「死」もひっくるめた私としての命の実物に価値を置いて、その方向に覚め覚めることを大事としていれば、痛みは痛みのまま、死は死のまま、というところが出てくる。