自分の死という盲点にピントが合うとき

「盲点」とは、眼球の奥の網膜から視神経がつながる、その1点で視野が欠けている状態で、実際にある。その「盲点」という視野の欠落は、両目で互いに補っているから普段は意識しないで済む。

「死」もそのようなものではないか。

とにかく「生活・生存」だけ、「金儲け・人付き合い・世渡り・処世術」という狭い範疇で、あれこれうごめいているだけの生き方では、生の裏側にある、生とともにある死、特に「自分の死」というのはまったく視野に入ってこない。

また、普段意識しているような「対象化された死」、つまり他者の死、概念としての死はすでに死そのものではない。死は「自分の死」が「自分の死」として不可避の状況に置かれてはじめて「あっ!」と気がつくような代物なのだ。

「自分の死」が「自分の死」として不可避の状況になってはじめて盲点である死にピントがぴたりと合う。そのとき「こんなところに落とし穴が!」と思っても手遅れである。

ところが、日々、日常において、その盲点である死にしっかりとピントを合わせて「生死ひっくるめての人生」として生きていく道筋がちゃんと用意されている。

それが仏教であり、仏法である。だからこそ尊いのだ。

仏教やそこに働く仏法は決して概念ではない、今ここに生きる(そして死んでいく)自分の人生の問題を根本から照らし出す限りない光なのだ。決して歴史的建造物・仏像・仏具などを眺めつつ、お賽銭を入れて柏手をたたくような代物ではないのだ。