「雪峰に参ずるほかは、自余の知識をとぶらわざりけり」
あっちこっちフラフラしないこと。
この人(師家)だと思ったら、その人に付きぬくこと。その人の言っていることが自分の言っていることとぶっ続きになるまで(耳鳴りがするぐらい・耳にタコができるぐらい)聴きぬくこと。
本でも、この本だと思ったら、何遍でも繰り返し繰り返し読んで、自分の血肉になるぐらいまで読み込むこと。
そうでなければ「本当に学んだこと」にはならない。
中途半端に聞いたり読んだりすれば、ただの概念としての理解(対象化された一般的な事柄として宙に浮いたような理解)にとどまってしまう。
同じ色の染め粉で衣を何度でも染め抜くように、聴いて聴いて聴きぬくこと、読んで読んで読む込むこと。
そうするうちに、同じことを何度でも繰り返し聴いて読んで学ぶうちに、朧気だった本筋(実物)がはっきり見えてきて、本当に自分の内に染み透るような理解(学び)になる。本当にピンときて自分の血肉(現生の生命体験)としての理解になる。
受験勉強としてのあるいは仏教学としての学びであれば、概念としての表面的な理解だけでも通用するだろう。しかし本当に仏教をそして仏法を学ぼうとするときには、こうした学び取る姿勢こそが大切になる。
出典