世間的・世俗的な相対的価値観は「没価値・無価値」を内包している

自分の存在意義とはなにか?

他との兼ね合いの中での(自分の所属する社会全体あるいは小さなコミュニティの中における)価値基準をモノサシとして自分の価値を測ってさまざまな思惑の中で「良い悪い」「勝ち負け」を判断しているのが人間の常の姿だと思う。

こうした世間的・世俗的な価値観に慣れ親しんで、それが当たり前だと思うと、いざそこから外れるような状況に置かれたとき「自分の存在意義とはなにか?」となる。あるいは「自分は生きている意味などない」ともなるだろう。

そのモノサシで持って他者を測れば、極端な話では、認知症の超高齢者は没価値、重度の知的障害者は無価値ということになり、「悪い」「負け」というレッテルを貼ってしまうのではないのか?

しかしながら、実際は私が生きているということには他と比較してああだこうだという相対的価値観とはなんにも関係がない。絶対的な意味合いがある。あるいはそもそも価値という他との兼ね合いや比較の中で値踏みをして推し量るようなモノサシがない。

世間的価値観に寄りかかったまま、ああでもなにこうでもないと頭の中でこねくり回していると、いかにも現実にそうした価値観に基づく自分があるかのように思い込んでしまうが、それをパッと手放したところで「今の息を今している自分」この世界を現成させている絶対的な存在としての自分がいる。

そこに気づく、そこに立ち返ることを帰命という。帰命とは生命の実物に立ち返ること、帰命とは南無。一称南無仏 皆已成仏道

他との兼ね合い地盤の価値観で思い固めたとこから覚めて生命の実物(なまのいのち)に立ち返れば、そこにあるのは自己ぎりの自己の世界。世俗的な相対的価値という屁のようなものが吹き飛ばされた実物世界が現成しているのだ。