思い以上の「私」

普段、私と思っている私は「業識」としての私。つまり、どこで生まれて誰を親としてどういう環境で状態で生まれ育ったか、そこでどういう教えを受けて影響を受けて何を価値概念として身につけたか、あらゆる偶然の産物としての集合体を私だと思い、その私をもって「私が」「私の」といって生きている。

そうしたあいまいな偶然の集合体としての私が、常に「ああしたい、こうしたい」「あれはいやだ、これはいやだ」とあれこれアタマで思い描いて、内面から突き上げてくる永遠に満たされない渇望に従って生きている、いやウゴウゴウジ虫のように蠢いているあり様が人間であり凡夫であり人生の縮図だ。

そうした私は死ぬことが絶対に決まっている存在であり、生まれる前に堕ろされていても良いはずの存在であり、たまたまの私であるので、本来だれであってもよかった私としての人生でもある。実にいい加減であいまいな私なのだ。

しかし同時にそうした私は世界で一人きりである。アタマで思い描けばいい加減であいまいな私が、この世界を現成している命の全てでもある。アタマで思い描けば常に満たされず迷いのさなかにある私だが、そうした思いから覚めたとき生命の実物に気づく。私は思い以上のところでは完結していて完全に満たされている。今の息を今することそれがすべてのすべてだ。生命とは生存だけでなく生死させる力それぐるみ生命である。すべてのすべてとは比較や分別を絶しているということ、つまり生死分かれる前の不二の生命。そこにこそ絶対的価値をおいて生きること。これが死んでも死なない生命を生きるということ。

そうしたところに决定するとき、この世界アタマで何を思おうが、どっちにどうころんでも我が生命として絶対的安心の地盤に生きていくことが出来る。尽十方仏土中とはそういうこと帰命尽十方無碍光如来とはそうした生命であり、思い以上の私のこと。

自分の思いを主人公とせず、その思いを手放すこと、無所得。こうした方向性や価値観は全く世の中の大半の人の人生観と真逆を示している。ほとんどの人は、自分の思いを主人公にして、それに振り回されて、何かをつかむ(得る)ことばかりを考えている。生命の実物から離れて宙に浮いたおもちゃ遊びが人生のすべてと思って夢うつつに苦しんだり喜んだりしているのが大半の人の人生の有様だと思う。それがあまりにも虚しくて自殺もできない人は自分を捨てて人生の見方そのものを転換する必要がある。