どうせ死んでしまう、どうせすべてを失ってしまう人生、なのになぜ生きねばならないのか?

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人生を考えるとき、そこにはいくつか難所がある。難所とは人生という大河にうずまく「渦(うず)」のようなものだ。

その最も大きな難所(うず)は、

「どうせ最後には死ぬ人生、それなのになぜ生きなければならないのか? しんどい思いをして勉強したり働いたりしなければならないのか?」

「結局この人生、死ぬために生きているのか?」

という問いだと思う。

人生を考え始めて、この問いにぶつかるとき、その深淵のような巨大な渦に対してどうしてよいかわからず、大抵の人はそれ(自分が死ぬこと)にしっかりと蓋をして見ないようにして、親や教師や世間によって植え付けられた既成の価値感・人生観でピッタリ蓋をしてしまって、つまり人生から「死」を切り離してしまうことになる。

ところが、そうすると、その人生というのは、とたん生命が失われた生存・生活だけの人生となり、いつも生存ボケしたアタマの中の相対的な価値感だけ追い回してばかりで、まるで蚊柱やウジ虫のようにウゴウゴ無方向にうごめくだけの状態に陥ってしまう。

あるいはその反対に「どうせ死ぬんだ」と極端な厭世観に陥ってしまい、自虐的・虚無的な生き方に陥る人もあるだろう。

これに対しては、雑駁なアタマでもって平面的な答えを出さず、立体的な答えを出すことが重要になる。

思いで解決しないという点で似たような命題に「卵が先か鶏が先か」という問いもあるが、たとえばこれに対しては「卵にとっては鶏が先、鶏にとっては卵が先、それが生命というものだ」というような答えを出すこと。

「どうせ死んでしまう」に蓋をする人生、

「どうせ死んでしまう」だけで死んだように生きる人生、

どちらも「生命の実物」を失った人生だ。

人間的な思惑による、あれかこれかという分別、良し悪しの価値感、そうしたちっぽけなモノサシで生命や人生(生命の実物)を判断しようとすれば、どうしたって平面的な答えになるし、あるいは全くもって訳がわからなくなって、思いの先っぽで煮詰まってしまい、合わせ鏡のような極限概念に行き詰まってしまう。

そうしたとき、当人のアタマの中で行き詰まっているのに過ぎないという点に気づいて、それをパッと手放して「生命の実物に立ち帰る」ことが必要になる。

つまり、人間的な思いの限界、アタマの分別や価値を越えた話として、

「”生死”それぐるみが生命なんだ」として見ること、「”生死”ひっくめて人生、”生死”を一つに貫いところに人生がある」という立体的な答えを出すこと。

生と死を、ひっくるめて生命といい、この生命を生きる一生が人生なのだ。

こうした「思い以上」のところで見渡す姿勢が大切になってくる。

常日頃からアタマの中で言葉や言葉によって抽象化された概念の世界だけにどっぷり浸かって生活していると、安易にアタマの思いが全てであり、そうしたアタマの思いだけで万事解決が付くと思いがちだ。

ところが実際アタマの中で分泌・精製される思いというものは生命の働きの一部にすぎない。人生における根本的・究極的な問題については、アタマの思いでは解決がつかないことのほうがむしろ多い。

思いでは解決しない「理不尽・不条理・不合理」がある、ということを思いで知ること、アタマの思い(心識-理屈)でもってアタマの思い(心識-理屈)の限界を知ること、このことがとても大切になる。

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