人生100年時代をどう生きるか?

というような見出しが、殊に最近目につく。

あるいはそれに近いような見出しをつけて、平均寿命が伸びた超高齢社会の日本で「この長丁場の人生をどう生きていくか?」「いかにうまく生きていくか?生き抜くか?」といった点について、お金に関するやりくりを始めとして、健康維持や老年時代における人付き合い、それからいわゆる「終活」といわれるような活動に関する点まで懇切丁寧な情報に溢れている。

そうしたことも大事であることは決して否定しないが、いつ死ぬかもわからない人生、最終的に死を迎える人生「なぜ、そうまでして生きねばならないのか?」そもそも「なぜ生きるのか?」人生を生死ぐるみ明らかにするほうが、よほど大事でないだろうか?

生と死があって生命なのであって、この生命を生きる一生が人生であるのであれば、「死」を切り離した人生設計は片手落ちの滑稽な絵空事にすぎない。

そもそも始めから人生100年を生きるつもりいることも滑稽なら、なんのために100年生きるのか、その方向性が定まっていなければ、たとえ100年生きても1000年生きても最後には白昼夢のような人生に終わるだけだ。

ここでいう「平均寿命」も日頃考える「死」も、それは自分から切り離された一般的な事象(概念)に過ぎない。自己のナマの命としてのリアルな寿命や死は全く別物なのだ。「人生100年時代をどう生きるか?」というのは世渡りの延長線上の話で、そうした意味で終活さえ日頃の生活の知恵的な世間話となんら本質的には変わらない。

終活というようなものも、あくまで「死」を対世間的・世俗的な片付けごとにおいた話であって、本当に当人にとっての死(生死ひっくるめた生命)の根本的な問題に対するなんの解決にもなっていない。

生活レベルで終止するようなアタマで考えた人生一般や概念としての死ではなく、本当に生命レベルの自己のナマの命としての人生を生死ぐるみの人生としてとらえて見渡して、そこに価値をおいて考えれば、いかに「人生100年時代をどう生きるか?」という問いがバカげた滑稽なものであるかがわかるはずだ。