「〜のために」というアテを描いて行動するのが世間一般のあり方だ。
「いい学校に入るために」
「いい会社に入るために」
「いい仕事に就くために」
「いい彼彼女を見つけるために」
また、結婚して子どもでもできれば
「いい学校に入れるために」
「いい職業につかせるために」
と際限がない。
そして、いつでも死を切り離した生存だけの世間的尺度・価値観で行動している。
しかしながら、人生いつでも「〜のために」というアテが描けなくなるときがくる。
たとえば、老境に至って、いよいよ死が目前に迫ってきたとき「なんのために生きるのか、誰のために生きるのか」と嘆息しているような人は多いのではないか?
たとえ、老境に至らずとも、大病をすれば、心身が思うようにいかなくなるような状況に陥ることだってある。
いつでも誰でも「〜のために」というアテやエサを目の前において行動するというあり方だけで進めば行き詰まって身動きのとれない況に陥る。
仏法の示す行動のあり方・生き方とは、究極的には「無所得(むしょとく)」、つまりアタマの思惑でアテを描かないこと、「〜のために」というアテを描いて、それを手にした手にできなかった、達成した達成できなかった、損した得した、勝った負けた、という話ではない。
仏法のための仏法
ただ行動する、ただ生きる
要するに「どっちにどうころんでも、ただやる、ただ生きる」ということ。
地獄に落ちたら地獄を勤め上げるという気持ちで、ただ生きるということ。
しかしながら、ここで話を平面的に済ませると、アタマの雑駁な人では「じゃあ、どうせ死ぬんだから、なにやってもいいだろう、どういう生き方をしてもいいだろう」という極論にすぐ傾く。
そうではない。
糞も味噌も見た目に同じだからといっても、やはり別物なのだ。
大事なのは、どっちにどうころんでもという中にも確かなネライ(方向)をもって行動して、生きることであり、それでいながら、そうしたネライをもって行動して、生きながらも、まったく思惑とは異なる結果が出ることもあるし、それどころか思惑とは反した結果になることだってあるのだということも承知したうえで、決して手前勝手なアテを描くのではなく「どっちにどうころんでも、ただやる!」と决定することだ。
アタマの思惑でアテを描かず、しかしネライだけしっかり定めて、どっちにどうころんでもというところに坐った姿勢で、ただやる、ただ生きる。
こうした本質的なところが本当にわかっていれば、一見「坐禅」に似ているようなヨガや瞑想法の類、それに「こころがスッと軽くなる」というようなことを謳い文句にしているような禅の本は、世間的尺度・価値観に迎合した全く見当違いの紛い物であることが判別できるだろう。