内山興正老師の著作物リスト

  • 発行年月順(老師の年齢は1998年85歳示寂以後も記載)
  • 新装版および同系統は並列(新装版は一部絶版を含む、柏樹社は全て絶版)
  • 柏樹社の冊子「まみず・まみず新書」および折り紙に関する書籍や雑誌類は除く
  • 国立国会図書館のリスト(折り紙に関する書籍や雑誌類などすべてを含む)
  • 書名のリンク:Amazon.com【現在刊行中の書籍のみ】
  • 番号のリンク:このblog内の書評
  • 蔵:Blog管理者の蔵書
  • 種別:便宜的に次の4つに分類した【論理:論理的骨組みを構成する主著にあたる本】【実践:論理的骨組みを構成する主著をベースに敷衍した比較的平易かつ実践的な本】【注釈:仏典や祖師方の著作物をベースにした本】【偈頌:エッセンスを詩の形(韻文の形式)にまとめた本】
# 書名 発行 年齢 版元 種別
1 自己 -宗派でない宗教- 1965.6 52 柏樹社 【論理】
自己 -ある禅僧の心の遍歴- 2004.7 91 大法輪閣  
【解題】折り紙に関する書籍を除き、内山老師による初めての体系的な書籍。題字「自己」は沢木興道老師によるもの
2 観音経を味わう -東洋の行- 1968.1 55 柏樹社 【注釈】
観音経・十句観音経を味わう 1986 74 柏樹社  
観音経・十句観音経を味わう 2012.7 99 大法輪閣
【解題】南無観世音菩薩。称名念仏真宗的な話も盛り込まれた観音経の話
3 進みと安らい -自己の世界- 1969.10 57 柏樹社 【論理】  
進みと安らい -自己の世界-(新装版) 2018.9 106 サンガ
【解題】老師が長年参究し温めてきた考えを体系的にまとめた最初期で最も重要な本。新装版の出版元であるサンガは一度廃業したが、サンガ新社として新たに出版業を継続しており、絶版することなく刊行中。
4 人生料理の本 -典座教訓にまなぶ- 1970 58 曹洞宗宗務庁 【注釈】
【解題】「3.進みと安らい」の考えを敷衍した内容で、実際に日常生活をいかに過ごすべきかをまとめた実践的な本。「7.生命の働き」も同じ意図を持って書かれているので、初期の論理と実践に関する本として、この3冊はセットと考えても良い。惜しむらくは曹洞宗宗務庁より刊行されており、絶版されて久しく市場価格も高騰しているため手に入れにくい点である。
5 生命の実物 -坐禅の実際- 1971.6 58 柏樹社 【実践】
坐禅の意味と実際 -生命の実物を生きる-(新装版) 2013.9 01 大法輪閣  
【解題】絶版されず現在でも出版されていて、最も市場に出回っているといえる本。安泰寺に来る外国人たちにわかりやすく道元禅・仏法の本筋を伝えるために書かれた内容がベースとなっており、中身も分量も手頃で読みやすい入門書。
6 宿なし法句参 -沢木老師の言葉を味わう- 1971 58 柏樹社 【実践】
宿なし興道法句参 -沢木興道老師の言葉を味わう- 2006.6 93 大法輪閣  
【解題】師匠である沢木興道老師の教えのエッセンスとしてのワンフレーズ(法句)を取り上げて、それに対して内山老師が参究した解説を短くまとめたもの。もともと沢木老師の死後、某新聞社の求めに応じて連載していたものであり、実際に書かれた時期としては「1.自己」より前にあたる。当初は「まみず新書」という柏樹社の小冊子としていたものを改めて増補する形で1冊の書籍として刊行。新聞連載されていただけあって誰でもが読みやすい体裁と分量でまとまっており「沢木-内山」として受け継がれた教えの骨子を垣間見ることができる手頃な1冊。新装版もほぼ絶版状態。
7 生命の働き - 知事清規を味わう- 1972.9 60 柏樹社 【注釈】
いのちの働き -知事清規を味わう-(改訂版) 2015.2 102 大法輪閣  
【解題】
8 正法眼蔵現成公案意解 -悟りとは何か- 1975 63 柏樹社 188  
正法眼蔵 -現成公案を味わう- 1987/1/10 74 柏樹社 192
正法眼蔵 -現成公案・摩訶般若波羅蜜を味わう- 2008/12 96 大法輪閣 238  
【解題】
9 天地いっぱいの人生 1975/10/10 63 読売新聞社 222
天地いっぱいの人生 1983 70 春秋社    
【解題】
10 証道歌を味わう 1976/8 64  曹洞宗宗務庁    
禅の心悟りのうた -証道歌を味わう- 1988/2/15 75 柏樹社 289
【解題】
11 求道 -自己を生きる- 1977/3/20 64  柏樹社    
求道 -自己を生きる-(増補版) 1989/10 77 柏樹社 193
【解題】
12 宗教としての道元禅 -普勧坐禅儀意解- 1977/11/15 65 柏樹社 155
普勧坐禅儀を読む -宗教としての道元禅- 2005/7 92 大法輪閣 166  
【解題】
13 正法眼蔵 -生死を味わう- 1978/7/15 52 柏樹社 269
正法眼蔵 -生死を味わう- 2010 97 大法輪閣 198  
【解題】
14 正法眼蔵 -八大人覚を味わう- 1980/5/25 52 柏樹社 269
正法眼蔵 -八大人覚を味わう- 2007/12/10 95 大法輪閣 252  
【解題】
15 人生科読本 1980/10/15 68 柏樹社 253
【解題】
16 正法眼蔵 -弁道話を味わう- 1981/6 68 柏樹社 262
【解題】
17 生存と生命 -人生科講義- 1982/10/10 70 柏樹社 270
【解題】
18 正法眼蔵 -摩訶般若波羅蜜・一顆明珠・即心是仏を味わう- 1982 70 柏樹社    
正法眼蔵 -現成公案・摩訶般若波羅蜜を味わう- 2008/12 96 大法輪閣 238  
【解題】
19 独りで歩け 1983/7/15 71 山手書房 204
【解題】
20 <生死>を生きる -私の生死法句詩抄より- 1984/2 71 柏樹社  
【解題】提唱録「仏性」#8(18分あたりから老師自身による解説あり)。青山俊董ととNHKで対話した録音もあり。これは生きている人に対しての引導。思っても思わなくても生命の深さで生き死にする。
21 正法眼蔵 -有時・諸悪莫作を味わう- 1984/11 72 柏樹社 238  
【解題】
22 大空が語りかける -興正法句詩抄- 1985/8 73 柏樹社  
【解題】
23 正法眼蔵 -法華転法華を味わう- 1985/9 73  柏樹社 229  
【解題】
24 ともに育つこころ 1985/9 73  小学館 222
【解題】
25 正法眼蔵 -仏性を味わう- 1987/8/20 75 柏樹社 291
正法眼蔵 -仏性を味わう- 2011/5/8 98 大法輪閣 248  
【解題】
26 正法眼蔵 -山水経・古鏡を味わう- 1988/5 75  柏樹社 305  
【解題】
27 正法眼蔵 -行仏威儀を味わう- 1989/6

76

柏樹社 206  
正法眼蔵 -行仏威儀を味わう- 2017/2/6 104 大法輪閣 176  
【解題】
28 御いのち抄 1990/4/10 77 柏樹社 203
【解題】
29 禅からのアドバイス -内山興正老師の言葉- 1993/3 80 大法輪閣 225  
禅からのアドバイス -内山興正老師の言葉-(増補・改定) 2019/4/8 106 大法輪閣 246
【解題】
30 正法眼蔵 -発無上心を味わう- 1994/3 81 柏樹社 197  
【解題】
31 いのち樂しむ -内山興正老師遺稿集- 1999/4/8 86 大法輪閣 226
【解題】
32 内山興正老師 いのちの問答 2013/9/10 101  大法輪閣 226
【解題】
33 拈自己抄 2019/12/8 107  大法輪閣 224
【解題】

正法眼蔵を味わう:味読シリーズ(全11巻)

# 書名 発行 版元
1 正法眼蔵現成公案意解 -悟りとは何か- 1975 63 柏樹社 188
正法眼蔵 -現成公案を味わう- 1987.1 74 柏樹社 192
正法眼蔵 -現成公案・摩訶般若波羅蜜を味わう- 2008.12 96 大法輪閣 238
2 正法眼蔵 -生死を味わう- 1978.7 52 柏樹社 269
正法眼蔵 -生死を味わう- 2010.1 97 大法輪閣 198
3 正法眼蔵 -八大人覚を味わう- 1980.5 52 柏樹社 269
正法眼蔵 -八大人覚を味わう- 2007.12 95 大法輪閣 252
4 正法眼蔵 -弁道話を味わう- 1981.6 68 柏樹社 262
5 正法眼蔵 -摩訶般若波羅蜜・一顆明珠・即心是仏を味わう- 1982.12 70 柏樹社 278
正法眼蔵 -現成公案・摩訶般若波羅蜜を味わう- 2008.12 96 大法輪閣 238
6 正法眼蔵 -有時・諸悪莫作を味わう- 1984.11 72 柏樹社 238
7 正法眼蔵 -法華転法華を味わう- 1985.9 73  柏樹社 229
8 正法眼蔵 -仏性を味わう- 1987.8 75 柏樹社 291
正法眼蔵 -仏性を味わう- 2011.8 98 大法輪閣 248
9 正法眼蔵 -山水経・古鏡を味わう- 1988.5 75  柏樹社 305
10 正法眼蔵 -行仏威儀を味わう- 1989.6 76 柏樹社 206
正法眼蔵 -行仏威儀を味わう- 2017.2 104 大法輪閣 176
11 正法眼蔵 -発無上心を味わう- 1994.3 81 柏樹社 197

人間関係の捉え方

ここでは円の理論に基づいて、人間関係に深く悩まないための捉え方についてまとめた。円の理論の核心とは関係しないが、こうした考え方にも応用できるという一例。

hibinokousatu.hatenablog.com

人間関係に悩んだら「円」と「円」を切り離すイメージを持とう

たいてい、人間関係に悩んでいるときは、アタマの中で「私」と「他者」の円を重ねた状態で考えている。

【円と円が重なり合う、あるいはぶつかり合う図】

 

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こうした相互に干渉し合う対立構造ではなく、明確に「私の円」と「他者の円」をスッパリ切り離した構図で捉えることが大事になる。

【円と円がそれぞれ独立して、完全に離れて交わらない状態の図】

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そして、何があっても(たとえ相手がどうあろうと)、こちら側ではこの円を切り離したイメージのまま、相手(他者・そのグループ)に対する「思い・考え・感情に基づく価値判断」を一切行わないこと。いろいろ考えたり思ってたり感じたりしても、それは自分の円の中(アタマの中)出来事にしか過ぎないと正しい目をもって見ること。湧いてきて仕方がない「思い、考え・感情」はアタマ中の一時的な(かつ一方的な)分泌物でしかないと知ること。

つまり「自分の円を、相手側の円に重ねないこと、被せないこと、少しも近づけずむしろ遠ざかって見渡している姿勢」が非常に重要になる。

「わたし」と「あなた(私以外)」を完全に切り離す

自分も他者も、それぞれ個人個人の価値観に基づいた考え方・感じ方で生きている。アタマの構造がそもそも異なるうえに、その場の気分(体の調子やお天気の具合、家族を含む近親者の状態などその人を取り巻く環境)なども異なる。

個々の自我・人格が形成する領域(仏教的に言えば業識)を「円」として捉える場合、その円は「一つの惑星あるいは銀河系」として捉えるぐらいの視点があってよい。

この点で、A惑星あるいはAという銀河系を、それと全く異なるBやCに合わせようとした場合、壮大な対立・衝突・炎上・爆発が繰り広げられてしまう。これを避けるには、お互いの惑星お互いの銀河系として、双方の見方・考え方・価値観を尊重して「明確に分けて、距離を保つ」必要がある。

AさんにとってBさんは別惑星の宇宙人、BさんにとってもAさんは別惑星の宇宙人。お互いに「未知との遭遇」をしているぐらいの感覚で捉えることが大事だ。

たとえば、Aさんが「Bさんは、どうしてこういうものの言い方をしてくるのだろう」または「こういう態度で接してくるのだろう、こういう反応を示すのだろう」などと感じ、自己反省したり改善を試みるなどして決して思い悩まないようにしたい。

それは「全く別の惑星に住むBさんという自我・人格が形成する円の描く領域の出来事」に対するリアクションであり、根本的にはAさんにはどうしようもならないからだ。この点をしっかり切り離したうえで、もし改善できることがあればやればいい。だけど、その結果の良し悪しで思い悩むのは滑稽だ。

こちらが良いと思って気配りしたことでも、こちらの思惑に反してあるいは全く相手側に反対の意味に取られたりすることもあるだろう。それについては「こちらも勝手、あちらも勝手」当然起こりうることなのだと、それぞれの「円」を切り離した考えで正しく捉えれば、気分的に落ち込んだりしても全く思い悩むことではないのだ。

お互いの「ものの見方・価値観・感じ方・考え方」が異なれば、それに基づいてその人にとっての「常識・正義・平和・安定」といった絶対価値も異なって存在するのであり(この点で絶対価値とは言えないが)、戦争もAという国とBという国が互いの「常識・正義・平和・安定」を物差しに志向して相争うのであるから、たとえば、その典型材料といえるエルサレムを主戦場とした紀元前からの争いも「我が国の正義・我が国の平和と安定」を主張して永久に終わることはないだろう。

こうした一見矛盾した構図も、円と円でスパッと切り離すことで正しい見かたができると思う。

常に、この構図を忘れずに、むやみな怒りや悲しみは避けたいものだ。また、人との接する際には「私が持っている物差し(常識・感じ方・考え方)が絶対でない」ことも常に顧みて反省して懺悔する態度がとても大切に成ると思う。

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価値観と方向性(円の理論を敷衍する)

「死」の一点から見つめ直した(見渡した)人生か、「死」を切り捨てた(蓋をした)人生か。この視点の違いによって、価値観と方向性が全く異なってくる。

「円の理論」の冒頭に挿入した、以下の図を見てほしい。

ここでは、アタマで思い固めた私と同じアタマでやり取りする他者との比較のうえで成り立つ世界に向かう宙に浮いた「→(矢印)」と、そのアタマぐるみ死もひっくるめた生命の実物としての私の命の地盤に覚め覚めて深まっていく「→(矢印)」の2つが描かれている。

ここに価値観と方向性の核心がある。

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 アタマの先っぽだけで思い描き思い固めした世界だけに価値と方向を置くと、死を切り捨てた生存だけの人生観という他者との約束事の概念世界・観想念の中だけで生きていくことになる。

この価値・方向でもって生きるとなると、当然そこでの絶対的(本当は相対的)価値である「物欲・性欲・権勢欲」または「健康・自分の子ども・家族」を拠り所(ご本尊)にして、そうしたものを軸に他者と奪い合い・競り合いをして「あれかこれか」「損か得か」「勝ちか負けか」に振り回され続けることになる。

そうなると、そのために他者を攻撃することも選択肢となってしまう。どうせ死んでいく私なのに、それが頭の先っぽだけだとすっぽ抜けてしまうから不思議だ。こうして価値と方向を間違えると、根本的な「見誤り」で誤った言動を選択・実行してしまう。

また、死ぬときは死ぬときでその同じ頭の先っぽだけの物差し(価値観)だけで測るのだから、さんざんにもがいてもがいてジタバタするし、当然絶望的になる。もちろん死に際しては生理的な苦しみ心理的な苦しみがあって当然だ。しかし日頃から「死」もひっくるめた私としての命の実物に価値を置いて、その方向に覚め覚めることを大事としていれば、痛みは痛みのまま、死は死のまま、というところが出てくる。

初めて内山老師の本を読む人のために

内山老師の本は多くある。

初めて読む場合、どれを読んでいいか迷うかもしれない。

なので、ここでは「とっつきやすく通読しやすく、内山老師の教えの核となる部分をわからないなりにもつかめると思われるもの」に絞って紹介する。

なお、近年復刊されて、また復刊した出版社(サンガ)の廃業で絶版になってしまった「進みと安らい」でもよいのだが、これは最初期に書かれた本で、老師が小僧時代から長年にわたって温めてきた考えを体系的にまとめているので、そこそこボリュームもあって、初めて手に取る人には少しハードルが高いように思う。

また、内山老師の考え方の癖になっている西洋哲学的傾向(澤木老師に批判されたような造作が多すぎる性向)が色濃く出ているので、この点でも「とっつきにくさ」を感じて、途中で挫折してしまう人もいるに違いない。 

西田哲学のような、わかりにくい言い回しを嫌った内山老師が(後の思想的な転換もあったに違いないが)絶版した理由の一つもそこにあるような気がする。

反対に、だからこそ「進みと安らい」は永井均のような哲学者の琴線に触れる(食指が伸びる)著作物として挙げられたのだろうが、哲学的な捉え方で論議されることは内山老師の本意ではないだろう。

ということで「進みと安らい」に関しては、読むにしても一番最後か、第4章「自己の構造」のみをためし読みするか、むしろ内山老師が絶版したのだから「読まない」ほうが良いかもしれない。

生命の実物 

復刊された大法輪閣のものもあるので、手に入れやすい1冊。

これは、安泰寺がそもそも(現在もそうだが)外国人のたまり場になっていて、そうした外人だちに如何に伝えるかという点で英語でまとめられた入門書の翻訳版である。

そうした点でいえば、いかにも既成の仏教の文脈でなんとなく伝わるだろう、という言葉の選び方や話の筋道では伝えられない相手に対して、いかにも磨き抜いた言葉と具体的に噛み砕いた話がまとめられている。

また、分量も少なく通読しやすい。 

そしてなにより「生命の実物(後年になって老師は「なまのいのち」と言い換えられているが)こそ、内山老師の数々の「掘り下げて磨き抜いた言葉」の中でも、その中心に据えられるべき、最も重要な言葉であり教えであるので、すぐには理解できないかもしれないが、これにまず目を通しておくのは良いと思う。

なお、「生命の実物」とは「仏法」のことであり、いかにも自由に話しているような場合でも、そこには典拠としての仏典があることは付け加えておきたい。

求道(1977年初版、1989年新装版)

求道―自己を生きる

求道―自己を生きる

 

著作リストから言うと、初期のころに書かれた1冊。

求道は(ぐどう)と読む。

内容的にもバランスが取れていて、講演録(提唱)あり、随筆あり、詩作(法句詩)あり、読み物として楽しい托鉢録あり、バリエーション豊かな1冊。

残念ながら、柏樹社の古書しかない。

ただし、一昔前であれば古本屋を探し回らなければ手に入らなかった本でも、Amazonなどで複数出品されている場合があり、その点ではある意味入手しやすくなっている。

  • 第一話:価値転換の時代(随筆)
  • 第二話:祖訓と私(随筆)
  • 第三話:生死(詩)
  • 第四話:求道者(提唱)
  • 第五話:泣き笑いの托鉢(記録)

まず、読み物としての第五話から読んで、そのあと内山老師の本質的な考えが短い言葉でまとめられた第二話に目を通してから、本書の肝である第三話の提唱、それから第二・第一と読むほうが読みやすいと思う。

なお、第三話の提唱は「安泰寺へのこす言葉」となっているように、昭和50年(60歳)に老師が安泰寺堂長を辞める際、弟子たちに向けて話された内容なのだが、これは録音が残っており、以下のYou Tubeで聞くことができる。


www.youtube.com

残念ながら音声がくぐもっていて録音状態が良くないので、書籍で読んだほうがわかりやすいと思うが、老師の声で聞くとまた違った印象を持たれるはずなので、あわせて紹介しておく。

ほかにも安泰寺のYou Tubeで内山老師の提唱が聞けるので、録音状態の良いものから聞いてみてもよいだろう。書籍よりも提唱から入ったほうが良い場合もある。

このYou Tubeの提唱に関する記述はまた別の記事で後日まとめたい。

内山興正老師とは

内山興正とはどのような人だったか。

残念ながら、私は生前の老師に会ったことはない。しかし縁があり、その著作や講演録に触れることで、とても惹かれるものがあり、今では生涯の師として仰いでいる(ただし老師本人は、あくまで正師とは坐禅であり法であるとして、弟子たちにも伝えていたようなので、その点でファンクラブ的な捉え方はしないように意識したい)。 

そのプロフィールや人物像について、私なりにまとめておきたくなったので、ここに記していくことにする。 

この記事では、簡単な素描に留める。

写真で見る内山老師

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出典:https://buddhismnow.com/2011/10/18/final-lesson-by-arthur-braverman/

この写真は、海外のWEBサイトから借用したものだが、カラー写真であることが珍しく、おそらく老師が60歳ごろで、現役で安泰寺堂頭をしていた頃に近く、普段着だった白の衣を着ていて、老師の実像に一番近い(と思われる)。

内山興正老師の略歴

1912年(明治45年)7月15日生誕
1998年(平成10年)3月13日示寂(満85歳)

最後の禅僧といわれた沢木興道老師の弟子・法嗣であり、かつて京都にあった安泰寺(現在は兵庫県の久斗山という山奥にある曹洞宗の修行寺)で沢木老師の遷化後に堂長をされていた曹洞宗の僧である。

著作に関する素描

曹洞宗の僧侶であるが、既成の仏教や宗派にとらわれない思索や活動を行った人であり、むしろそうした既成の枠組みをなんとか取っ払って、誰でもわかりよい言葉にして伝えようと(老師の言葉で言えば「一鍬でも掘り下げたい」)と日々努めてきた方である。

もちろんそれは、仏祖・祖師方から綿々と受け継がれてきた「仏法」の教えの本当のところを、確かな形で届けたい(老師いわく仏教の教えや経典が「ただの缶詰」の保管や受け渡しで終わっている状態から「缶詰の中身を実際に自分で食べて、味わって、それを他の人に勧めるような具合で伝えたい」)という思いによるものである。

なので、その著述も既成の仏教的な言葉で済ませるのではなく、なるべく使わないで如何にその本質を伝えられるか、苦心されてきた形跡とも言える。

それは、内山老師の性格や経歴とも深く関係しているといえるのだが、そのあたりの形式的な紹介は以下のウィキペディアを参照されたい。

内山興正 - Wikipedia

ともかくそうして苦心されてまとめらた言葉の数々は、いま巷でいかにも「コレを読めばあなたの抱えている苦しみや悲しみから解放される」ということを扇動的なタイトルや書影にしてまとめた書籍よりも、ずっと本質的に「心の救い」となる深い言葉に溢れている。

本質的にというのは、安易で表面的でいかにも大衆受けするような、耳障りの良い言葉を切り売りしていない、考え抜かれ、実際に修行を通して体現された老師の体を通して紡ぎ出した「真実」に基づいた言葉で書かれている、ということだ。

今あるものを大事に使う

いわゆる八大人学にいう「少欲」「知足」。

 

仏教では「無欲」などという非現実的なことは教えない。

それはそうだ。食欲や睡眠欲がないのは辛い、性欲がない世界もつまらないだろう。たいていの芸術文化はこの性欲(色気)をベースにしているのだから。

 

仏教では「少欲」「知足」。

あくまで、足ることを知る、ああしたいこうしたいと常に湧いて出てくる「もの足りようの思い」つまり煩悩を最低限のところで満足しておく、ということを教える。

 

換言すれば「今あるものを大事に使う」ということ。

押し広げて言えば「今の命を命の限り大事に生きる」ということ。

 

あれこれ欲しいものがあれば、収入の範囲内に留めておく。

ところが、収入は少なくても生活のレベルは上げていきたいというような、てめえの収入の範囲(輪っか)から欲望の輪っかを逸脱させて、あれほしいこれほしいと動いているガキのような大人が多すぎやしないか?

 

これと同じように、命の火が弱ってきているのであれば、その弱った火のままにその命を大事にただ生きればいい。

オレは若いヤツには負けないとか、年齢にも病気にも打ち克ってとか、気焔を上げて生きなくたっていいんだ。

 

すべてのものは尽き果てていく。

私は今授かっているものを大事にして生きていきたい。

「死」を切り離して生きる人たち

このBlogの根本テーマである。

誰もが死ぬのに「死」はその直前まで置き去りにされている。

 

人生設計という言葉自体が滑稽であるが、これに「死」が含まれていないのは、どう考えても片手落ちだ。

生存ボケした世渡りの術だけが絶対価値とうい生き方では「死」はいつもスッポぬけている。

「生死」ひっくるめてこそ「生命」なのだ。

 

「死」それも「自分が死ぬ」という絶対事実から自分の生命・人生を常に見渡す目を持っていないと、人生の生き方やその地盤にある価値観や方向性がまるっきりおかしなことなってしまう。

 

少し散漫になってしまうかもしれないが、ここに「死ぬということ」の本質的な事柄をダイジェストでまとめておきたいと思う。

 


 

「天国で幸せに過ごしてください」

「どうぞ安らかに眠ってください」

 

いつでも「死」は他人事であり、絵空事である。

他人の死を前にして、たいていは、こんなおとぎ話のような言葉しか出てこない。

 

その向こう側においた「死」が、今ここの自分事なのだと気づいたときはどうか。

 

「まさか自分がガンになるなんて」

「まさか自分が死ぬなんて」

「死んでも死にきれない」

 

このとき自分と自分の人生から「死」を切り離して生きてきた人は、その価値観が正反対にひっくり返る瞬間なので、まるで青天の霹靂のような反応を示す。

 

「生(生存)」だけで生きてきた場合、たいていは「金・異性・健康」ぐらいが最高価値だから、それを丸ごと捨てて真っ逆さまに落ちていかねばならない。

「いや!オレだけは死なない!」

なんて言っても、大丈夫、その思いぐるみちゃんと死んでいくんだ。

「死を克服する!将来生き返るように保存してもらう」

という発想もあるらしいが、いかにも頭の先っぽだけで生きてきた人の発想だと思う。死のない生命があるとしたら、それはすでに生命ではない。

 

バリバリの政治家や経営者が、この「死ぬということがわからない人」の典型だといつも感じる。

 

いや自分を度外視しているようで申し訳ないのだが、70、80になって金や女や権力にしがみついているのは、どうも「死(自分の死)」がすっぽ抜けているとしか思えない。

国のトップや企業のトップなど、永遠に生きるつもりかのような顔で、あれこれやっているが、つくづくその顔を見ながら、自分が死ぬことだけは蓋をしているのだな、という気がしてならない。

 

「死(自分の死)」から人生を見直して、そこに絶対的な最高価値を置いて生きていく態度であれば、人生において決定的に誤った選択はしないで済むと思う。

だから、いつでも「死(自分の死)」から人生を見直し見直しして生きていきたいと思うし、そうした点においてこそ、仏教や宗教の存在意義もあるのだ。