思い固められた私

朝、目覚めた瞬間から、その日やらなねばらない仕事内容を頭で算段している。

「まず、あれを片付けて、その次にあれをやって」

「ああ、あの人からまだ返事がない、あの人にあれを頼まなければ、面倒くさいな」

などなど、次から次へと湧いて出てくる。

 

ほとんどの人は、朝から晩まで、こうした頭の思いに掴まれて、それに従って(見かたによっては振り回されて)生きているのではないだろうか?

寝ているときでも夢を見ている場合は、厳密に言えば頭の思いに従っている状態と言えなくもない。

 

それどころではなく、それに従って生きている「思いに固められた私」だけが「現実の私そのもの」だと思い込んでいる人がどれだけ多いことか。

 

坐禅をしていると「思いに固められた私」に気がつくことができる。

 

思いが渦のように巻き起こって、気づかないうちにそれに何度も飲み込まれていく自分がいて、飲み込まれて気づいて、その思いをパッと手放して、また気づいてということの繰り返しを坐禅中している。

 

坐禅でない限り、こうした想いの連鎖の渦に飲まれた自分「思いに固められた私」のまま、あれでもないこれでもないとグズり続けたあげく、棺桶に足を突っ込むところまで行ってしまう気がする。

お金が御本尊様という価値観

この世の中の問題は、一皮むけば、たいていみんな「お金」の問題である。

自ずと「お金」が絶対価値のようなつもりで、それを御本尊様にして生きている人が大半ではないだろうか。

 

そうした人は、お金をエサに騙されて、また、お金を人質に騙される。

うまいもうけ話に投資もすれば、預金が危ないと言われてカードを盗まれもする。

 

最期、死ぬときには、どうしたって「お金」も資産も丸ごと置いて、裸で死んでいかねばならないのだ。

絶対価値が、この世の約束事としての相対価値にすぎないことをしって、それを絶対価値として執着していた分だけ高い位置から奈落の底に落ちていかなければならない。

 

そうして裸で死んだあとに、同じお金を絶対価値とするハイエナたちに、丸ごとむしり取られしまう。

なんともない私

春の花、満開の桜。

大勢の花見客が集まる場所でも、ひっそりとした路地でも、同じように花を咲かせる。

 

道端に花咲く、たんぽぽ、すみれ、ハコベなどの道草。

満開の桜の下だろうが、花見客に見向きもされなかろうが、ただ自分の花を咲かせている。

 

世間的なものさし(価値観)に囚わて、日々あたまの思いにガンジガラメになった人間だと、こうはいかない。

たとえば、こんな愚痴が聞こえてきそうだ。

 

「こんな裏路地の誰も見てくれないようなところで、満開の花を咲かせているなんでバカバカしい、花を咲かせる意味なんてないじゃないか!」

 

「みんな注目している満開の桜の下で、見向きもされず、あげくに踏みつけられて、こんなところで、みじめに小さな花を咲かせていられるもんか!」

 

だけど「他者の評価、世間的評価、相対的価値観」とは一切なんの関係もなく、自分の命のままに咲く花のような「なんともない私」が、人間個々人にもちゃんとあるのだ。

 

頭の思い固めに囚われていれば、それだけが現実で、愚痴ばかりになる。

そうした思いを手放したところにあるのは、自分を生かしている生命の実物。自己がただ自己である、自己ぎりの自己。

 

「すみれはすみれの花が咲き、バラはバラの花が咲く」

春の花は、生命の実物の在り方を、実物見本として教えてくれているようだ。

円の理論

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はじめに核心を述べる。ここでは2つの円について語られる。1つは「思惑=思枠(思いの枠で固められた)円」もう1つはその「思い以上の円」である。

そして、後者こそ人生の真実のあり方を示す「円」であり、絶対的な価値観・方向性として日々において時々刻々目覚めるべき真実の姿(坐禅における坐の尽界)である。

「思い以上の円」で示す「円」とは「融通無碍・諸法実相」の円であり「宇宙とつなぎ目のない、宇宙とぶっ続きの円」であり「どっちにどうころんでも自己」であるような、分別・思いを手放したところにある「生命の実物」としての円である。もっと卑近かつ直截に例えて言えば「棺桶から見た自己、生まれる前に堕ろされた自己」であり「種々様々な雲(思惑=思枠としての円)を浮かばせている青空」である(思いで円を描く私に、その円を描かせているサムシングとしての円である)。

これは即ち仏法の根幹を示す明確な図式として結実した一つの見方・考え方であり、そのベースとしては、仏教があり、道元禅師があり、内山興正老師の導きがあって(当然オリジナルではないが)「この考えであれば、理屈としても十分納得がいく(※)」と欣喜雀躍してメモをしておいたものである。

ここに、その概説をまとめる。

また、この理論は(理論の核心とは直接関係しないが)いわゆる世俗的な苦悩の根源ともいえる人間関係(対世間的・社会的地盤での)苦しみを解消するひとつの見かた・考え方としても応用できる。

さらに、この理論に基づいた具体的な話として価値観と方向性というタイトルでも別記事(もう一つの体系的考察)としてまとめておきたいと思う(結局人生とは価値観と方向性の問題であり、宗教的生活とはその本来的転換にあるのだから)

※仏法は言葉で言い尽くせぬものだが、人が頭を持った生命である限りは頭を持って仏法の言い尽くせぬところまで言い尽くすべき、という考えに基づいた「理屈(理論)」である。それで万事解決ということでは当然ない。あくまで仏教の示す法の深みについて見渡すための一つの方便である。 

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円とはなにか?

円とは即ち道元禅師の「普勧坐禅儀」冒頭に出てくる「道本圓通」の「圓=円」である。
また、同時に普通に日常「私」といっている「形成された自我としての円」でもある。 

同じ「円」でも、ここでは全く異なる概念をもった2つの円として(理屈として理解するため便宜上)それぞれ捉えられているので、その点をまず十分意識してもらいたい。

前者は、頭を持った自分を手放したところにある「どっちにどうころんでも自分」であるところ「不二の生命の実物」としての自己であり、普段アタマで捉えている生理的・心理的・世間的・社会的自己といった他との関係性のうえにある相対的な自己ではなく、絶対的な自己であり、その意味で生命の実物としての自己であり、仏法の源・仏道の要としての「円」である。

後者は、認知科学でいうところの生まれた瞬間に肉体的に認知する自己、また成長とともに、自我の芽生えとともに明確に形作られていくところの自分、つまり相対的な意味での生理的・心理的・世間的・社会的な意味で、普段からアタマで他との関係性において認知している自分(自我)としての「円」である。

こうした意味で、「円」は2つの定義がなされる。

アタマ(わかりやすく言えば煩悩・物足りようの思い・その思い固め)を手放したところにある何一つ不足するところのない「悠々として幽邃な、まどかなる自己(無我・無相)」が一つ。そして反対にアタマだけで捉えていつも他との関係性に置いて行住坐臥・右往左往している、相対的・世間的価値観、他と区別の上にある「アタマの枠組み(形ある円、思惑=思枠の円)として自分(自我)」が一つである。

次に、この2つについて、それぞれ見ていく。

※便宜上、前者を「圓(道本圓通の圓)」、後者を「円(形ある枠組みとしての円)」としたほうが概念として区別しやすいかもしれないが、現場はひとまず「円」としてまとめていく。

アタマの枠組み(円)としての自分(自我)

ここでの円は、形ある相としての円である。

ここでは「円=自分(自我)」であり、普段から「私が!私の!」と言っているところの馴染み深い自分である。

また、この円は、他との兼ね合いにある点で、さらに後にまとめるもう一つの円の概念と比較するうえで「空に浮かぶ一片の積雲(丸い雲)」として捉えてほしい。

人は「円」として生まれる

人が生まれること、1人の「私」が生まれること、それはまた、1つの小さな「円」が生まれることである。大空にパッと浮かんだ1つの「雲」である。

生まれてすぐは、小さくて、弱々しくて、その円の外縁の膜(枠)も薄くて、ある意味、非常に柔軟性・弾力性・可塑性のある円である。雲としては、快晴の高い空に浮かんだ、一筋の巻雲のようなもので、上空の風に吹かれて様々に変化する。

この点でいえば、ふにゃふにゃした「楕円」といったほうが適当かもしれない。
比較する雲もない「徒雲」のような「私(自分)」がここに誕生したわけだ。

人は自我の目覚めと同時に「円」を強化する

成長過程において自我が芽生えると、自分の周りにある様々な「円(他者)」が明確に意識されてくる。また同時に自分の「円」に対して意識的に手を加え始める。

「円の形、円の大きさ、円の色」いずれも他の円(他者)との兼ね合いで、また円を取り巻く価値観(家族・学校など所属する小さなコミュニティが持つ良し悪しの判断基準=世間的な物差し)を拠り所として「より良い円」にしようともがき始める。

そうして、ここに自我に目覚めた「円」と「円」が、円どおし(凡夫どおし)が、互いに比較しあい、攻撃しあう世界が立ち上がる(凡夫同士のアタマの中だけで)。

これによって、また、人間関係の苦悩が明確に現れてくる。

図式としては、「円」と「円」どおしの絡み合い・ぶつかり合いである。さらに「円」と「円」の姿かたちが異なると(その人ごとにアタマの中で描く価値観や考え方が異なると)このぶつかり合いはより激しくなる。

こうして、身近においては世間的なぶつかり合い・いじめ、また広く見れば世界的な経済圏での戦争・宗教的理念に基づいた戦争が、頻繁かつ間欠的かつ恒久に人間世界において行われることになる。

強化された「円」は肥大化する

こうして頼りなく漂うだけだった楕円のような「円」は、自我の芽生えによって明確な「円」となり、そして成長する過程において獲得した考えや価値観・社会的地位や所有物によって強化された「円」となり、さらに強化された円は「肥大した自我」となって、その外周を押し広げ巨大な円となり、また外縁(枠)を太く固くして、全く可塑性のない「円」にしていく。

価値観や方向性を間違うと、こうした円を強く肥大化する方向に向かって人生の最後まで進んでしまうのが凡夫であり、この間違った状態こそ無明の闇である。

この「円」はアタマの思惑=思枠で描かれた円であり、他者との世間的な兼ね合いにのみあるように思っている「思い固めした円(自我)」である。

【メモ:内山老師の雲の法句詩をここに挿入しておきたい】

この円が他の円とぶつかり合う世界を想像してみてほしい。

力ある(大きくて太い円)は他を圧し、時には恣に殺すことも厭わないだろう。一匹の大きなライオンのような気持ちで他の円をはねのけ蹂躙し従わせて思うままに生きていくかもしれない。こうした中で弱い円は強い円に取り込まれ、また圧殺されて生きていく他ない。生殺与奪の世界である。

円の崩壊・円の劇場ともう一つの「円(圓)」

そしてやがて巨大な円もひび割れて壊されて、また死の前に打ち壊されて、その間、新しく生まれた円の群れが凝りもせず同じような舞台を演じるのだ。

こうした世界が現前としてあるようで、それは実のところ人々の思惑=思枠により形成された価値観に基づく世界観(頭の中の劇場)に過ぎない。

こうした思枠による「円」の世界は、まったく他との兼ね合いという点において相対的であり、相対的である限りは泡のように消えていく世界でもある。

そうした「円」が円同士のぶつかり合いで右往左往していようとも、雲に例えるなら、無数の様々な雲たちが生まれては消えてを繰り返しながら行き交いしていようとも、まっさらな青空は青空のままである、この青空こそ、もう一つの「円」であり、実のところ「私!私!」と思いまどい強化してはぶつかり合っている脆い円としての自分の実像(実物)なのである。

このことに気づくこと、この実像(生命の実物)に立ち返ること、アタマを手なばしにすること、時々刻々・百千万億発それに覚触すること、それが仏法の示す方向性なのだ。

この点から、もう一つの「円」を次に説明してみたい。

悠々として幽邃な、円かなる自己(無我・無相)

ここでの円は「無相」としての円であり、たとえるなら光と闇を内包した青空であり、パッと浮かんでは消えていく雲=相の現れては消えゆく無量無辺の景色である。

また、月のようなものである(円月相)。草の露にでも、水たまりでも、広大な海の水面にも浮かんでは消え、そして壊されることのない光である。

「坐の尽界から見渡した、自己尽有尽界時時」

「天地いっぱい、他を自己の世界の風景として見渡した自己完結の無相」

「大きさなどの概念を超えた、他をも自我の円をも包摂する尽一切世界」

としての円である。 

こうした本来備わっている無相の「円(圓)」に、自我で凝り固まった「円」をなげうつ姿勢、これが坐禅であり、南無(帰命)の一念でもあり、仏法である。

普段アタマで捉えている自分、他との兼ね合いに置いて評価・形成しているところの自分、これは形として明確に見える「円」であり、もっともわかりやすい概念であるし、この円こそ自分の全てと思って「やっさもっさ」行住坐臥・右往左往して、金・異性・権力・名誉といった(アタマで捉えた世間地盤の)価値観に群がって、勝った負けたしている(思い込んでいる)だけが、ほとんど世間で見られる人の姿であり、ともするとそれだけ(アタマでの他との兼ね合いにおける自分だけ)が自分のすべてと思っているのが我々凡夫の姿である。

ただし、このアタマの働きも含めて自分であることは間違いない。こうしたアタマで描く自我のいびつな円を包摂する円=それ自体完結した円かなる自己(他との兼ね合いにないので、この場合の自己という表現は概念で捉えるため便宜上用いるわけだが)がある。それは「ある」とも「ない」とも言えないところに平気な顔してある無相の円である。「生命の実物」としての自己本来の姿としての円である。

仏法とは「円」から「圓」にシフトすること、覚め覚めること

こうした融通無碍・円満無欠の円かなる「円」は、果たして、そんなものあるのかないのか、疑っても拒絶しても、そうした疑い拒絶するアタマの思いぐるみ包摂されているところの自己であり、だからこそ真実としての自己である。

日々、アタマの中のアレコレの妄想に突き動かされて、物足りようの思いに血道を上げて、それが手に入らないとグズっては、ときに絶望して死にたい気持ちになっても、そうしたアタマの劇場とは全く関係のないところで平気な顔をしている自己である。

その自己、自己の実物、アタマ手放しの生死ひっくるめた命に実物に生きている、生かされてあることに「覚める」こと。「円」から「圓」への転換・回帰の一念こそが仏法であり、死ぬときに死んでいく力さえ、その圓にすっぽり収まってくれるのである。私の思いとは別のところで。 

南無観世音菩薩 

ベストセラーは凡夫の鏡

Amazonのベストセラー、いわゆるランキングの上位100位あたりを日々定点観察しているのだが、定番といえば、男女のアイドル系の写真集、ダイエット本、お金もうけ本などである。

これらの定番ラインナップからわかるとおり、ここには凡夫の煩悩がありありと現れる。ベストセラーは凡夫の鏡であり、そこには人々の「物足りようの思い」「こうしたい」「ああなりたい」がタイトルと書影から見え隠れしているようだ。

当然そこでは「健康」もテーマになる。

最近のベストセラーを見ていると「老いない生き方」「癌にならない生き方」などが上位にラインアップされていた。

本当は「老いて、癌になる」つまり「死ぬことを大前提においた生き方」こそ大事なのだが、まったく求める方向が逆だ。

こうした本のタイトルに惹かれるような生存ボケした人々にとっては、ぜいぜい「健康と金」だけが幸福の定義である。

しかしながら「健康と金」だけをご本尊様にして、それを絶対価値としていれば、人生の最期には奈落の底に落ちていくような思いで死んでいかなければならないだろう。

「人生はニャンとかなる」なんてベストセラーもあった。

しかし、「人生はニャンとかなる」ときもあれば「人生はオインクオインク(老いと苦しみ)」に満ち満ちたものでもある。何事もなしあたうのが神様であり、むしろ「ニャンともならない人生」「思い通りに行かない人生」が当然あって、「それでも、ぐずらずに生きる姿勢」こそ大切なのではないか。

損得や逃げ道ばかり探していては、いつになっても苦しいままだ。

「死」を見つめない生き方は、本当の生き方ではない。

「なんで私が」といってみんな死んでいく

「私だけは大丈夫」という蓋
「死ぬことを忌み嫌う」蓋
その覆っている蓋が「無明の闇」を生み出しているのだ

その蓋が開く時
その蓋を開いて入っていかなければならない時
それは100%確実にやってくる
そのとき「なんで私が」となる

人生は「生まれて生きて、そして死んでいく」
理性ではわかる、しかし「死」は概念や観念の域を出ない
だから「死」いつも他人事、自分の死はいつも焦点がボケている

こう書いている私も、ご多分に漏れず「なんで私が」と思うだろう
ただ、死の蓋はいつでもオープンにしているつもりだ