なんともない私

春の花、満開の桜。

大勢の花見客が集まる場所でも、ひっそりとした路地でも、同じように花を咲かせる。

 

道端に花咲く、たんぽぽ、すみれ、ハコベなどの道草。

満開の桜の下だろうが、花見客に見向きもされなかろうが、ただ自分の花を咲かせている。

 

世間的なものさし(価値観)に囚わて、日々あたまの思いにガンジガラメになった人間だと、こうはいかない。

たとえば、こんな愚痴が聞こえてきそうだ。

 

「こんな裏路地の誰も見てくれないようなところで、満開の花を咲かせているなんでバカバカしい、花を咲かせる意味なんてないじゃないか!」

 

「みんな注目している満開の桜の下で、見向きもされず、あげくに踏みつけられて、こんなところで、みじめに小さな花を咲かせていられるもんか!」

 

だけど「他者の評価、世間的評価、相対的価値観」とは一切なんの関係もなく、自分の命のままに咲く花のような「なんともない私」が、人間個々人にもちゃんとあるのだ。

 

頭の思い固めに囚われていれば、それだけが現実で、愚痴ばかりになる。

そうした思いを手放したところにあるのは、自分を生かしている生命の実物。自己がただ自己である、自己ぎりの自己。

 

「すみれはすみれの花が咲き、バラはバラの花が咲く」

春の花は、生命の実物の在り方を、実物見本として教えてくれているようだ。