人生の苦しさと虚しさ

人生についてアレコレ書き記すのであれば、まずその問題点・問題の根本を明らかにしておくべきだ。

このカテゴリ内の記事では「人生の問題」そのもの、この世の中を生きるうえでのリアルな諸問題、煩悶・葛藤などまとめていきたいと思っている。

それには、まず私自身が常日頃感じている本音の部分(人生において悩み苦しんでいる部分のリアル)を掴み出して、書き記しておかなければならない。

人生は苦しく、そして虚しい

人生における苦しさは主に「人間関係(人付き合い)」に属して、そして虚しさは「死(喪失・離別)」に属するように思う。

人間関係のいざこざで心が擦り切れて、死を前にして(あるいは喪失・離別を眼前にして、また想起して)深淵のような虚しさを感じてしまう。

どちらもいたたまれない思いが渦巻く。その両方で心が疲弊してしまうことも多い。

人間関係の苦しさ

たまに「私は人が大好きで、人付き合いが好きでしかたない」という人もいるが、そうした人は、よほど達観した人か、そうでなければ、よほど依頼心が強く、周りの人に気を遣わせていて、そのことに鈍感な(つまり周りに気を遣わせる側の)人か、そのどちらかだろう。

程度の差こそあれ、人間関係が人生のおける苦しみの筆頭に位置づけられるものだと思うし、いわゆる世の中にあふれる処世術などの対処法に関する本や情報が溢れていて、なおかつ、そうした物が売れていることからも、それは窺い知れる。いや窺い知るまでもなく、ここでは私の苦しみを吐露する場所なので、事実そうなのだ。

ただし、これについてアレコレくどくど並べたてても、単なる愚痴しかならないことはわかっているし、いまは細かく述べ立てる気持ちでもないので、またこのカテゴリ内でそのタイミングが来たら、まとめて吐露したいと思う。

なんのために生きているのか?

いつも思うことはこうだ。

「なぜ、なんのために生きねばならないのか?」

「なぜ仕事をしなければならないのか?」

「たとえ順風満帆、うまく定年まで勤め上げたとして、そもそも、こんな生きる意味も価値もつかめない人生で、たとえ年金を満額もらって、歳をとって細々生きながらえたとして、いったいそれがなんなのだろうか?」

「なにをしても最後には死ぬ。それまで、ただ寂寞と歳をとっていくだけではないか」

仕事をしていても、このような思いがふっと浮かぶと、それに強く囚われてしまい、まったくやる気を失ってしまう。また、事実その仕事もうまくいこうがいくまいが、刹那的な一喜一憂に過ぎず、ただただ虚しい。

生きることに理由はない。意味もない。どうしなければならぬ、こう生きねばならぬという一切の強制がない。ただ、生まれたから生きている、生まれて生きて死ぬ、これだけが人生だ。しかも「生まれて苦しんで死ぬ」このほうが事実に近い。

だから、こんな人生生きているだけ無駄だ、さっさと自殺しよう、という人がいれば、せいぜい「残される人に(たとえば家族に)迷惑をかけるような死に方だけはするなよ」と言ってやるぐらいしかできないと思う。事実明確に止める理由はない、なせなら生きることそのものに意味・理由がないのだから。

また、生きる意味・理由がないとして、だったら好き勝手やろう、悪いことでもしてやろう、といってそっち方面に突っ走るやつもいるだろうが、事実死んでしまえば良いことをしたやつも悪い子としたやつも同じ灰になるだけだ。どうせ死ねば同じ。

だからといって、私は自殺もしないし、悪いことも積極的にしない。

生きる意味がない。人生には根本的に意味がない。といっても、自殺をするにはあまりに短絡的だ。死のうと思えばいつでも死ねる。また実際のところ本能ではどこまでも生きていたいので、いざ死を前にした途端にそうした思いも喪失してしまう気がする。それに、じゃあ悪いことをしようという馬鹿にもなれない。

しかし個別に見れば、たとえばがんやALSの末期で、死にたくても死ねないぐらいの極限状況に置かれた場合はどうだろう? それは当事者にならなければわからないが、それこそ「なんのために生きねばならいのか?」という問題は常に眼前にあって逼迫した状況において、より強く意識されるに違いないと思う。

また、人生は虚しい。だから恋愛や異性に対する熱情に人生を傾けようとか、結婚して子供を作って、子育てや家族を中心にした生き方の中で生きる意味を見出していこうとか、趣味を持とう、仕事に熱中しよう、いやいや人助けだボランティアだとか、虚しさから脱するための色んな道筋が出てくるが、どれも誰かにあるいは何かに依存して、寄りかかって虚しさをごまかしているだけの逃げ道、対処療法に過ぎない。

どれもこれも相対的な解決策であり、その寄りかかっている側が変化すれば、一気にメッキが剥がれ落ちて、ごまかしが露見するだけだろう。

答えは「今、ここ、この私のうち」にこそある。

私の外側にアテ(いわゆる幸福の対象・幸福感を与えてくれるもの)を描いて生きる意味や理由を求めれば必ず動揺や幻滅に会うだろう。

私はこの世界を表象する主体であり、私を超えたところでこの世界の一切が私である。つまり自己完結した生命として私は「今ここ(而今)」にある。

「このままでいい」という小さな私の思い以上への没入あるいは昇華。そこにこそ生きる方向性にかついての絶対価値があるはずなのだが、それを小さな私のアタマで抽象した概念としてしか捉えられておらず、アタマで思い描きながら、そこに生きることができていないので、どうしてもまだそれが本当にわからないでいる。