生まれてきてよかったとも思わないが、ともかく子供を生んでおこう

いつ頃だったか、とある政治家が女性を子供を生む機械のように扱って避難を浴びたことがあった。もちろんこれは避難されるべき無神経な言葉だと思う。しかしながら、同じような無神経さ、鈍感さで実際子供は作られているのではないか、という気がする。

そもそもなぜ子供を生み育てるのか?本当に考えて確かに狙いが定まったうえで作っている人がどれほどいるというのか?

「好きな人と一緒になるのだからぜひとも子供を生んでおかねばならない。適齢期なのだから親や親族や世間的な目もあるのだから、とりあえず結婚してとりえあず子供は拵えておくのが当然だろう。もっとひどいのになると、生きている意味がわからない、だから子供でも生んでおけ、と子供に自分の生きる意味を見出そうとする輩もいるだろう」この性欲・世間相場の価値観に基づく慣習・自分勝手な動機の無神経さと産む機械発言の無神経さとどう違うのか? ただ自発的か他者から言われたかの見かけの違いに過ぎないのではないか? 

子供は親の分身ではない、ということを自覚している人はどれほどいるのか? そう思っていない人は本当に生むための機械のようなものだと思う。

子供が生まれましたというと、それはおめでとうございますと手放しで祝うものだが、本当は「なぜ子供を作ったのですか?」と問いかけたい思いだ。そしたらどう答えるか?

「性欲の高まりでやむなくとか、だって夫婦は子供を作るべきでしょう?とか、ひとり親になるけどペットのような自分の分身として愛玩するための子供を作っておきたくてとか、自分が年老いても死んでも子供がいることが慰めになるとか」他にどういう理由があるだろうか? またこれらの理由を聞いてもやっぱり「おめでとうございます」となるのかどうか? 

人は親から世間から所属する組織から社会から世間相場の価値観を分けもなく刷り込まれているものだ、それはよく言えば処世術わるくいえば主体性のない自分のない機械的鈍感さといえるものだ。これをよくよく自覚しておきたい。