ついてまわる2つの思い:貪欲と不安
朝起きて坐を組む。思いはいつも「貪欲」と「不安」の間を行き来する
いや、朝起きた瞬間にすでにそうなのだ。
坐すればそれがより明確になり。普段はそれが意識されないほどに溶け込んで、その思いがために右往左往する。
坐を組む。やらなければならない仕事、やっておきたい仕事で心がざわついていて(急いでいて)突き動かされるのを感じる。ときに坐を組んでいることを失念するほどに思いのツタにぐるぐる巻かれていることに気づくこともある。そうして貪欲の根底には不安がある。
いつでも「あれをしておかなければ」「これをしておかなければ」あるいは「あれをしたい」「これをしたい」という思いが自分の中にうごめいているのを感じる。そうして「できなければどうしよう」と不安を感じ、その不安がさらに「〜だったらどうしよう〜になったらどうしよう」と先の不安を呼び起こす。
不安とあせり、果てしない貪欲。
「ああしたい、こうしたい」
「ああなったら嫌だ、こうなったら嫌だ」
それは様々な姿で現れては消え、消えては現れる、そうして永遠に満たされず、死ぬまでそうした思いに突き動かされていくのではないかと思われる。
いつでも「どうしたい」「どうしよう」と「追い求め」「逃げ回る」、こうしておそらくほとんどの人が生涯「欲望と不安のメビウスの輪」を回り続けるのだろう。世の中でそれらは「金」と「人間関係」の2つの姿に集約されているに違いない。
しかしそれは頭の中の映画で、すべて世間相場の他との兼ね合いによる約束事の世界だ、映画を「引き」で見ると、そこには映画ぐるみ今ここの「実物」がある。
坐禅をするとそれがありありと見えてくる。
坐禅をしてそれが永遠に消えることはない、どこまでいっても我欲をもった凡夫であるり、頭の思いぐるみが私なのだから。しかしながら、それが「思い」であることを思いで知ることはできる。そうして「思いを主人公にしない」態度、先にアテを描いてウゴウゴとうごめかない姿勢、そうした方向性をもって生きることこそが大切なのだ。
生きてるだけで丸儲け、でいいのか?
という言葉、これは明石家さんまが言い出したとか、そのへんははっきりしないが、「生きてるだけで丸儲け」という言葉は大衆に肯定的に受け入れられている感じがある。
それならば「死ぬときは全てご破算」とも言えるのではないか?
だいたい、世の中のマジョリティの価値観で言えば、生きている側面、ただ生存だけの側面からしか語られていない場合が多い。人生設計と言っても、たとえ終活といっても結局、生存の側からの目線しかない。
重要なことは、生死を貫いた視点、生死をひと目に見渡す視点、生存だけでなく死も含めた「生命地盤」での価値観ではないか。
であれば「生きてるだけで丸儲け」では片手落ちだ。あるいはその価値観でいけば「死ぬときは全てご破算」で、「あなたは癌です」と言われた日には奈落の底に落ちていくような絶望に陥ることになるだろう。
たとえ生きても死んでも、今ここの生命に落ち着く。「不生不滅」というところに本当の安心があり、本当の価値観も見えてくる。
そのためにはまず「死」を「自分の死」を念頭に置いたうえで価値観の転換を図らないと、ただの「生きてるだけで丸儲け」では結局のところ生死を貫いた「生命地盤」ではなく「生存地盤」だけの世間的な損得の価値観の延長線上なのだから、そこで右往左往することになってしまう。
思う通りにいかない人生
おおよそ自分のこれまでの人生を見渡して、また、世の中の様々な人の有り様・出来事を見るにつけ、すべて煎じ詰めたところ「どうして私の思うとおりいかないんだ」とぐずっている姿でしかないのだということを、特に最近になってつくづく感じるようになった。
この世の中は「ぐずり合いの広場」とは内山老師の言葉である。
すべて世の中のニュースを見ても、思い通りにやろうとして、その思い通りに行かずにぐずっている状態、暴れている状態、あるいはその結果、だけではないか。
その反対に思い通りに行って浮かれている状態、これもまた結局道理は同じだ。
私たちは常に頭の思い・思惑(思枠)に振り回されて、がんじがらめになって(いることにも気づかず)ただ、自分の思いを満足させること、思い通りにやること、自分が納得して、自分が満足すること、だたそれだけに躍起になっている。
そうして、思い通りに行かなければ、ぐずって周りを振り回して、反対に思い通りに行けばニヤリと笑って悦に入る。
この自分の思い・思惑(思枠)が悩み苦しみの根本要因であるということに本当に気づかなければならない。
自分の思いを主人公に行動しているだけでは、生涯にわたって人生の真実からは程遠く、その最期にはどうしたって思い通りに行かない「死」の前に絶望しかない状況に陥ってしまう(思いを働かせるのであれば、そうした方向でなくてはならない)。
思いの先っぽを寝ても覚めても追い回し、思いの果てに思いごと死す。その思いとは何なのか?という方向に思いを働かせてみよう。
【イワン・イリッチの死】章タイトル(私案)
- 弔問(傍らから見た死)
- その生涯
- 世間的幸福の追求(憂愁と虚栄)
- 兆候(世間的価値の消失と転換)
- 変化
- 目隠し
- 虚偽
- 孤絶
- 苦悶(生死の謎と奇怪な想念)
- 追憶
- 新しい目(生死を貫く視点)
- 死(不生不滅不垢不浄不増不減)
染み付いた世間的価値観を転換させることの難しさ
世間的価値。それは生まれてからずっと親・学校教員・関係する友人・知人を介して叩き込まれ、そして世の中に渦巻く情報すべてにそれが溢れかえっているので、まるで空気のようなもの、疑うべからざるもの(疑う目すら持ち得ないもの)となっており、完全に自己暗示にかかった状態で、頭の芯から心の内奥まで染み込んでいる。
典型的には「お金」を絶対価値とすることだろう。それを軸としてあらゆる「世間的に」価値ありとされている一切の価値概念に死ぬまで翻弄されて生きているのが人間の姿だと思う。
これは宗教でも同じことだ。手を合わせれば御利益を願い、それが得られなければ「神も仏もあるものか」となる。あるいは精々御朱印という名のスタンプラリーを楽しむぐらいか。
「お金がご本尊さま」になっている限り、その同じ価値観でドツボにはまるのは致し方ないことだ。そのために晩年に尻尾を出す人がどれほどいることか。
かくいう私も同じことだ。世間的な価値概念が手放せない。自分の凡情に嫌気がさす。仏法を学んでも「オレのための仏法」では世間的価値と何が違う? 宗教はこうした染み付いた世間的価値を大転換させることなのだ。換言すれば生活・生存だけでなく「生死」を貫いた生死ひっくるめての生命(本来の我)に帰ることだ。
こうした私は、直下に時々刻々、発心百千億発、ということがやはり必要なのだ。
人生の本当の価値に目覚める:まっさらな生命の実物地盤に立ち返るということ
自分が自分と思う以前に「私が私が、俺が俺が」という以前に、母体に命として生まれた瞬間にどうしたって片足は棺桶に突っ込んでいるんだ。
人生の本当の価値観に目覚めるためにはその棺桶から見直す必要がある。
つまり生まれる以前に堕ろされていてもおかしくない、生死ひっくるめたのが生命の本来のあり様だ。そこからいつでも人生を見直すこと。
私たちはいつも抽象概念で作り上げられた頭の世界だけで生きている。なんとはなしに社会的・世俗的価値観だけが人生だと思いこんでいる。
そうした地盤だけから人生を見ていればどうせ片足が棺桶という人生の真実から片足踏み外しているんだし、だから金・地位・名誉でのぼせ上がっている状態で「あなたはがんだ」と言われた瞬間に頭真っ白になって奈落の底に落ちるような思いもしなくてはならなくなる。それでは遅すぎる。
抽象概念で宙に浮いた頭の思いを手放して、生命の実物・ナマの命にいつでも何度でも繰り返し目覚めること、それだけが大切だ。