我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか

という、ゴーギャンの絵があるが、いかにも頭の先っぽの思いを追いかけたような言葉だ。こういうタイトルで多くの人は、そこにいかにも人生の深い問いかけがあるように思って、それを同程度のアタマで掴んでしまう。

「左の窓から右の窓へ一羽の鳥が横切った、はてあの鳥は?」といった感慨と同じだろう。

これは仏教的に言えば、

・無所従来亦無所去、故名如来金剛経

・不生不滅、不垢不浄、不増不減(般若経

であり、「来るとも言えず、去るとも言えず」「有るとも言えず、無いとも言えず」そうした人間的アタマの思いの先っぽで捉える「分別以前」「思い以上」のところの生命の実物の働きこそ我々であり、また実際「我々」というのはアタマの思いだけの話で、事実こうした世界を現成させているのは「私」以外いないのだから、思い以上・分別以前のこの私が不来不去・如去如来でただ現成して、今の息を今している、といったところが答えになるだろうか。

内山老師の言葉を借りれば、

・手桶の水をばらまいたからといって水がなくなるわけではない

・天地いっぱいの御命に帰命する

といったところだろうか。

また内山老師は、不来不去・如去如来を「紅茶のパックが熱湯を入れたガラス瓶の中で染み出してくる様」にも例えている

つまり「出入りなしのところの出入り」でそこにただ深まっていく様をガラス瓶の中の紅茶は示しており、そこで「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか?」という問いかけは、ガラス瓶に差し込む光で壁に投写された紅茶パックの染み出す影のモヤモヤとした動きをいかにも動いているとアタマで捉える様子に例えられるだろう。ところが実物の生命(ここではガラス瓶の中の紅茶パック)としては、来るとも言えず去るとも言えず、今そこにただ当たり前の有様で現成して深まっているだけだ。

要するに「見ている方向が見当違い」なのだ。

空を見て「あの雲たちはどこから来たのか、どこへ行くのか」といっている有様にもにているように思う。

実際「我々は」などと深刻そうにつぶやいている人間様も、本質的には空に浮かんでは消えるうたかたの雲ようなものだ。コマ落としフォルムで見れば人間も雲のようにパッと生まれてムクムクっと大きくなったかと思うとまたたく間にシュッとしぼんで消えていくような存在でしかない。

そんな雲のような人間同士が、また雲のような金や人や土地や地位といったものを取り合い奪い合いしている有様が、いわゆる世間相場で展開された人間社会だ。

実際のところ人間も雲のように「有るとも言えず、無いとも言えず」「来るとも言えず、去るとも言えず」泡沫のように浮かんでは消え、消えては浮かぶ、しかしそうした雲の展開する光と闇を内包した大空は、なんともない顔して広がっている。我々の(生死を内包した)生命の実物もそのようなものではないのだろうか?