求めて得る道筋

普通の世間相場では「求めるとき、手に入れようと思うとき」私の思いで(ものさしで)追い求め、手に入れる。

「私が求め、私が得る」という図式が当然だと思う。

ところが、仏法では、その図式のまま私の思いで求めることは、真逆の方向に離れていくことであり、そして私のものになった(手に入れた)と思い満足したとき、それは全く仏法とはほど遠いものを手中にしたことになる。

凡夫が悟りを得ると魔物になる。

決して、業相の続きとしての私による思いで、世間相場・世間地盤で追い求めないこと、そうした「私の思い」ごと手放すこと。仏法のために仏法を修すること。

「我執」「我見」を手放すこと。

この一事を見失ったならば、たとえ大蔵経百万遍読破しようが、坐禅で巌のごとく座りぬこうが、声帯が擦り切れるまで称名しようが、千日回峰行を何回達成しようが、全く見当違いの所業になる。逆に「私がやった、手に入れた、成就した」という思いだけが増長した悪魔か底抜けの馬鹿が出来上がってしまう。

また、この一事こそ、真実の宗教と擬似宗教の違いを見極められる一点でもある。